一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

くも膜下出血で入院

今年の5月30日の夜に、今まで感じたことのない種類の頭痛を感じた。くも膜下出血だったのだが、ウェブ上にある体験談によれば「頭をバットで殴られているような激しい痛み」とか書かれている場合もあるが、私の場合は頭に霞(かすみ)がかかったような感じがして、軽い痛みだった。聴力がちょっと衰えたような感じがして、軽い「幽体離脱」みたいに感じて自分に聞こえてくる人の声がちょっと距離を置いて聞いているような感覚があった。
普通の頭痛ではないという感じがしたため、順天堂大学医学部附属浦安病院へ夜11時頃に妻が運転する自動車で行った。
救急窓口へは私が一人で歩いて行って、症状を聞かれて「頭痛です」と告げたところ、受付の看護師が、通常の人と同じように歩いて受け答えがしっかりしている私の様子を見て、そんなに緊急ではないと判断したのか、「そちらでお待ちください」と告げてきて、私は1時間ほど待っていた。そうしたら、「念のためにCTを撮りましょう」と言われ、CT検査をしたところ、担当の医者が慌てて「今から入院してもらいます。くも膜下出血です」と告げてきた。「今から10分間だけ時間を差し上げますから、明日以降の予定等のキャンセルなり連絡してください」と言われたので、スケジュールを見ながら妻に誰に連絡したらいいかを伝えて、あっという間に10分間は終了。そのままガスを嗅いで昏睡状態へ。私の場合、1度目のくも膜下出血で、出血した量が比較的少量だったらしく、体を動かしていると2回目の出血がありうるだけに直ちに眠ってもらう必要があったらしい。
結局その後4日間ほど意識を失っている間に手術が3種類行われた。「新岡さん!」と声を何回かかけられて目が覚めたら、主治医が今までの経過を日本語で説明しだした。もちろん言っている意味も分かるのだが、なぜか日本語で「はい」とか「いいえ」とか言えない。これは不思議な感覚だった。日本語で声が一切出ないのだ。主治医が「そう言えばこの患者さんは米国に長く住んでいたんだっけ。英語で話してみるか」と思ったらしく、今までの経緯を英語で説明してきた。これに対して私はYesやNoは言えたらしい。このあたりは私の記憶が定かでないが、なんとなく覚えている。
その結果、主治医が私の妻に「ご主人は日本語でのコミュニケーションができなくなって英語でのコミュニケーションしかできなくなったのかもしれない」と告げて、妻は慌てたらしい。幸い、数日後には日本語を喋ることができるように脳が回復して、周りもほっとした。
手術後色々なホースや線が体に繋がっていて、そのため3週間くらいベッド上から動けなかったので、体重は8kg落ち、体の筋力はかなり衰えた。
7月4日に浦安病院を退院して、リハビリ期の患者だけが入院する病院に転院。リハビリをかなり真面目にやって、7月27日に退院。2ヶ月ぶりに自宅に戻った。
一般にくも膜下出血の患者の半分は1ヶ月以内に死去し、生き残る患者5割のうちの2割は重篤な後遺症を抱えることになり、残り3割は社会復帰することができている、というのが統計的事実。
私の場合、頭脳面でも身体面でも大した後遺症もなく社会復帰できたのはまさに僥倖。サポートしてくださった医療関係者、リハビリのトレーナー、家族、親戚、友人に感謝したい。

判断疲れ

PEAK PEFORMANCE 最強の成長術(ブラッド・スタルバーグ/スティーブ・マグネス著、福井久美子訳、ダイヤモンド社、2017-11-22)を読んでいたら、以下のような記述があった。ちょっと驚いた。

p.227
裁判官には、提出された証拠に基づいて公正な判決を下す責任がある。裁判官というは、ノイズや先入観を巧みに排除し、どの事件も中立的な立場で裁定するものだと思われている。ところが、驚くなかれ、裁判官の裁定は、同日に何件判決を下したかに影響されるというのだ。
例えば、裁判官たちが仮釈放を許可した割合を調べたところ、午前中は65%だったが、同日夕方は0%だったという。
裁判官たちはいわゆる「決断疲れ」に屈したのだ。何件も裁定を下すうちに精神的に疲弊してしまい、事件を真剣に検討するだけの元気がなくなった。かくして仮釈放を許可しないという楽な選択肢を選んだというわけだ。
重要な判断を下すという責務を担いながら、決断疲れから逃れられない専門職は、裁判官に止まらない。
最近の調査によると、内科医も1日の経過と共に消耗していき、診断ミスを犯す確率が高くなるという。その研究の筆頭著者であるジェフリー・リンダー博士は、『ニューヨーク・タイムズ』紙で次のように語っている。
「つまるところ、医師もしょせん人間だということです。診察の終了時間が近づくにつれて疲弊して誤診しやすくなるのです。」

疲れない人工知能の方が公平な判断をしてくれそうだ。病院には午前中に行っておいた方が良さそうだ。(笑)
ちなみにこの本では「負荷+休息=成長」という例がこれでもかこれでもか、と出てくる。練習ばっかりやってクッタクタになる練習だけのような高校の野球部ではダメで、休息を取ることによって成長する、という当たり前のことを教えてくれる。

もう一つ紹介すると:
p.239-240
例えば研究結果によると、太った友人が一人いると、あなたまで太ってしまう可能性が57%も高くなるという。一人の友人が煙草をやめると、あなたが喫煙する可能性は36%減少するそうだ。友人の友人や、そのまた友人といった間接的な関係でも影響力は意外に大きい。仮にあなたの友人の友人が肥満だった場合、あなたも肥満になる可能性は20%高くなる。顔を知っている程度の友人が煙草を吸い始めただけでも、あなたも煙草を吸い始める可能性が11%高くなる。
要するに、どんな人と付き合うかで、あなたの行動は大きく影響されるということだ。何をいつやるかだけでなく、誰とやるかも重要なのである。

「朱に交われば赤くなる」どころか、「朱に交わって赤くなっている人と接すればピンクになる」ということか。

日本人のプレイボーイ

米国にいた時に聞いたジョーク。何回か聞いたことがあるので、多分有名なジョークなんだろう。
「世界で4つ存在しないものがある。アメリカ人の哲学者。イギリス人の作曲家。ドイツ人のコメディアン。日本人のプレイボーイ。」

実際はそれぞれ存在するわけだが、存在しないとしてジョークになるほど少ないという印象を与えているところが問題。日本人にプレイボーイがいないとはどういうこっちゃ。

冷戦終了時に東西のドイツが統一することに欧州各国は反対だった。当時のイタリアの首相だったアンドレオッティのコメントに私はしびれた。「ドイツを心底愛する私にとっては、愛する相手が一人ではなく二人の方が嬉しいですね」と。妻以外に愛人を(複数?)持つのが当たり前のイタリアの政治家らしいコメントで、そのプレイボーイぶりが微笑ましい。

実際は、日本の政治家もプレイボーイの人も多いのだが、今の世の中世知辛いので、メディアで愛人のことを報道されると選挙に落選してしまうので、公にできないところがイタリアやフランスとは違うところか。

新年の決意の達成がなぜ難しいか

タバコを辞めようと思ったら、交友関係を見直さないで辞めることは困難であろうことは容易に想像がつく。なぜなら喫煙家は喫煙家の友人を多く持ちがちであり、喫煙家と一緒に食べに行ったりしたときに禁煙を維持しようとするのは難しいからだ。
同様に、新年の決意(New year's resolution)を考えて、自分の何らかのbehaviorを変えようと決意するんだったら、交友関係・環境を見直す覚悟が必要だ。「今年は本を100冊読む!」とか思うんだったら、本好きな友人と頻繁に会って良書の意見交換をする機会が必要だろうし、お金を本に割けるだけの小遣いの交渉、および家の中に本を置くだけのスペースを確保をする必要もある。
特定の大学や大学院出身者が社会的成功をする傾向が見られることも、学校で教えられてきたコンテンツなんかよりもクラスメートとの卒業後の付き合い、向上心旺盛なマインドを互いに刺激し合う交友関係などの方がよほどその後の人生への影響力大きいのではないかと思う。

新年の決意をほとんどの人が達成できないのは、努力が足りないという側面よりもそれ以前の設計ができていないんだろうというのが私の仮説。その決意を実施するに当たり、自分の周りの環境の整備・変更が必要なのに、それを怠ってひたすら自分の努力だけで達成しようと思ったって無理ってもの。

人体六〇〇万年史と経営

人体六〇〇万年史 (ダニエル・E・リーバーマン著、早川書房)を読むと、類人猿と違って人間がなぜ文化を発達させたかと言うことについて、大脳発達よりも「骨盤の形状が変わって、左右にぶれずに、二足歩行で、長距離歩けるようになったこと」が類人猿と分かれた理由だったということらしい。つまり頭が良くなる前に、たくさん歩けるようになったことが大きい、ということ。
我々人間が走った最高速度は他の大型哺乳類と比較して遅いのだが、普通に歩く時速3〜4kmとかだと何十kmでも歩き続けることができる。
ところが猿の骨盤は人間のような形状になっていないので、ゆさゆさと左右にぶれて、数キロ歩くだけで疲れるほど、体重移動によってとてつもないカロリーを使ってしまうのだそうな。確かに、猿が歩くのを真似して歩くと疲れる。
人間が何十kmも歩けると何が得って、食料の確保だ。食べ物を求めて、どこまでも歩いて行くことができたわけだ。人間が哺乳類を素手で捕まえようと思うと足の最高速度が問題になってくるかもしれないけど、木の実を採るとかなるとどれだけの距離を移動できるか、という方が大切になってくる。移動できる距離が大きくなることによって環境変化に強くなるわけだ。
 
企業が生き残り続けるためにも、ネットだの人工知能だのいった社会の急激に変化するスピードについていく「自分が変化する最高速度」で勝負する会社もあるだろうけど、ゆっくりではあるかもしれないが、とんでもなく違う業界/市場へゆっくりと移行し続けることによって生き残る会社、というのもありだな、などと考える。

教訓を学ぶ勇気

御嶽山噴火 生還者の証言』(小川さゆり著、ヤマケイ新書、2016-10-05)の著者は、2014年9月の御嶽山の水蒸気爆発による噴火時に頂上近くにいたのにも関わらず、なんとか生き残った山岳ガイド。本の中に以下の記述があった。(p.150)

「たいてい言ってはいけないことが教訓の核心ではないかと私は思っている。その言ってはいけない教訓の核心は、災害で犠牲になった方の行動を非難しているように捉えられかねないからではないか。生き残った人の行動は、裏を返せば犠牲になった人があたかも劣っていたかのように捉えられるからではないか。教訓を伝えようとすれば、それは死者に鞭打つことと批判されるからではないか。」

この構造は、どんな災害や事件で生き残った人にも当てはまるものだ。生存することができた人が「自分が生き残ることができた原因」を当事者の視点から冷静に分析して正直にそのことを言うことができない。
例えば「津波が来ることを警告した市役所のアナウンスを聞いたら、ためらわずにすぐに山に逃げたことが良かった」とサバイバーが言ってしまえば、「アナウンスを聞いてすぐに逃げなかった人は馬鹿だと言うのか!」という非難を浴びてしまうことを恐れて、「単に私は運が良かっただけです」という当たり障りのないコメントしかできない。
災害等で亡くなった人には申し訳ないが、原因分析と人格とは切り離して教訓を学ぶ心的態度が必要だ。相手の心情を慮る優しさは必要だが、自然災害などからの教訓を学ぶ時には非情な厳しさが要る。
教訓を学ぶ勇気の無い者には、のちに同じ仕打ちを受ける可能性が高くなってしまう。

誤嚥事件

晩御飯を食べながら笑った時に誤嚥(ごえん)して、約90秒ほど呼吸ができなくなり、死にそうになった。家族によれば顔色がパープル(←次女の言い方)になり、土色になって、電話で救急車を呼びかけたところで、呼吸できるようになり、なんとか生き残った。
いや〜、本当に死ぬかと思った。
ゲホゲホ咳き込んで息を吐くことができるけど、吸い込むことができない。したがって肺に空気が入らないので、酸欠状態になり、目の前の景色(私の場合、台所のシンク界隈だったが)に星がいっぱいキラキラしている状態にまでなり(この時点で呼吸できなくなって60秒ほど)、その時私が頭の中で考えたことは:
「いや、待てよ。この状況をちゃんと論理的に考えてみよう。苦しいものだから自然に全身に力が入ってしまっているから呼吸できないのかもしれない。もっと力を抜いて気道を広げるようにしてゆっくり呼吸をすれば息を吸えるかもしれない」
と考え直し、無理やりゲホゲホせず、酸欠で死にそうでも落ち着いてゆっくり息を吸ってみた。最初はできない。(この時点で呼吸できなくなって80秒経過)しかしもっと力を抜いてしゃがみこんで気が遠くなりつつあったが、ゆっくり息を吸ったら、少し吸えた。空気が肺に入ってくる。そのおかげで意識が少しはっきりしてきて、もう一度息を吸ってみるともっと多くの空気が肺に入ってくる。その空気を勢いよく吐き出したら、誤嚥していたものが出てきたようで、急に呼吸が楽になって、目の前の星は消えてなくなっていき、意識も明瞭になった。

今晩の誤嚥事件の教訓としては:
1. 高齢者だけが誤嚥で死ぬわけではない。
2. 早食いとかせず、ゆっくりよく噛んで飲み込むこと。
3. 食物を飲み込む時のタイミングで笑ったりしないこと。
4. 誤嚥して息ができなくなったら、焦らず体の力を抜いてゆっくり深呼吸するように試みる。
5. 誤嚥すると周りの人々は最初大したことがないと思っているが、呼吸ができない人の顔色を見て初めて深刻さが分かって、慌てて対策を講じ始める。

6. 普段から誤嚥をした人にどんなことをやらないといけないかを学習する必要性がある。