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一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

インタビューの作法

先日、仕事の関係でインタビューされていたんだが、相手の出来が悪すぎて途中で辞めたくなった。何が問題かというと、第一に、インタビューガイドらしきものを作ってインタビューをするのはいいのだが、あまりにそれに固執していて、ちょっとでも外れることを一切しない。こちらも相手の背後の読者が興味を持ちそうな、新しい仮説とか話してあげているのに、そこを深堀りしようともせずに、さっさと次の質問へ移っていく。
第二に、本当は分かっていないくせに「分かったふり」をしている。後で調べれば何とかなるような専門用語/業界用語みたいなものだったら分かるが、いくつかの論理が省略されて結論を述べているのに、「そこをもっと詳細に教えてください」みたいなことを尋ねてこない。つまり私の言っていることを理解していない。
第三に、「~についてはどんなお考えをお持ちですか?」という具合に、質問が漠然としすぎる傾向があり、どんな答えでも言えてしまうものが多い。
インタビューされていて、知的な緊張感みたいなものが皆無なんですよね。こんなインタビュー記事を読まされる読者も迷惑な話だなぁ、と思います。ちなみに狭い業界誌向けで、ウェブでは読めないそうです。

怪我しやすい選手とそうでない選手の違い

スポーツ選手でも怪我しがちな選手とイチローみたいにほとんど「怪我で欠場」というのが無い選手もいる。この違いには、もちろん体の柔らかさとか普段のトレーニングとかいう要因があるのは分かる。
しかし最大の要因は、実力を100%近く発揮して試合に臨んでいる人と、80%の実力とかで試合に臨んでいる人の違いかな、と考えている。要するに「余裕度」だ。高校野球の球児みたいに100%出しきって「毎試合完全燃焼!」状態でプロ野球で試合をやったら、間違いなく怪我をする。
本当のプロフェッショナルとは、自分に求められている水準を最低限の労力でギリギリでクリアする人たちなんだろうと思う。一回だけの勝負なら100%出しきるのも分かるが、世の中のプロフェッショナルは長期戦を戦っているのであり、長期間、継続的に結果を出し続けないといけないのだ。
その意味では、毎回難しい手術を長時間かけて成功している外科医とかでも、本当の100%の実力はそれをはるかに凌駕する水準で持っているはずだし、「和食の鉄人」とかの料理人でも同様なはずだ。彼らは通常、全体としてみると実力の7、8割で戦っているわけだから。
ビジネスでも「お前の持っている実力を100%出してやってみろ!」とか言う上司は、怪我する部下、つまり「燃え尽き症候群」とかの予備軍を作っていることを自覚しないといけないということかもしれない。
でもプロはプロなりに「本当の実力」を上げないと「余裕度」が上がらないので普段の努力がとんでもないんだろうとは思います。

今我々が生きていくのに必要な「国語力」とは

20代の社員と話していて感じたのだが、ビジネス文書を書かせると、国語力が圧倒的に足りない。それは学校教育で教わる国語力なのではなく、コミュニケーションのツールとしての国語力が圧倒的に足りないことに気付く。
うちの娘たちの国語の宿題を見ていて私が感じるのだが、日本の学校で習う/育てようとしている「国語力」は:
1. 書き手が何を言おうとしているのかの推測ができるような読解力。書き手の言わんとしていることを100字以内などにまとめる能力。
2. 読んだ内容について思ったり感じたことを書かせる、(感受性を磨いて?)感想文を書く能力。
などが主体になっている。
一方、世の中に出て必要とされる国語力は:
1. 論理的に物事を考えて、それを相手に理解してもらい説得するための思考力と文章構成力・対話力。
2. 複雑な事象を、誤解の余地がないように明晰な文章で表現する国語力。
3. (契約書など)構造的・論理的に書かれた文章をちゃんと理解して、その足りない部分などを考えることができる国語力。
4. 相手が必ずしも100%表現することができない事柄を、想像力などを使って表現しがたいものを言語化して思考を明晰化(explicit)する国語力。

そういう意味で、学校の国語の先生に有能なビジネスマンが教えに行ってもいいんだよなぁ、などと考えてしまった。
それでも村上春樹とかにビジネス文書を書かせたら相当明晰な誤解の余地ない文章を書いてくれそうな気がする。要するに言葉の意味空間に対する感性が鋭いというか解像度が高いというんでしょうかね。作家という職業は文章を分析的に読み書きすることに慣れているからじゃないかなぁ、なんて考えている。

管理職の育成と経営者の育成

経営者の育成を最近よく考える。「管理職の育成」と「経営者の育成」では似た側面と全く異なる側面がある。似た側面としては会社というのは「個人」で戦うところではなく「組織」で戦うところなわけで、その意味でチームワークは不可欠だ。それは管理職でも経営者でも組織を動かして「事を成す」という意味では同じ。でもチームワークという言葉は経営者にはどうもしっくりこないものがあると私は感じていた。その私の違和感を日本電産永守重信氏の著書『「人を動かす人」になれ!』(三笠書房、1998年)を読んで明瞭に言語化されているのを発見して嬉しくなった。「チームワークばかり叩き込むと、決断力、指導力がにぶる」という一文で、次のようなことを言っている。
「日本の社会の中にプロの経営者を育成する仕組みが全く根付いていない。(中略)超大手企業にも管理職を育てる仕組みはあっても、経営者を育てる仕組みはない。一流の大学を出た優秀な人材に、(中略)チームワークや協調性の重要性ばかりをたたき込む。しかし、経営者に必要なのは決断力、判断力、指導力などであって、これはチームワークや協調性とは対極をなすものである。20歳代、30歳代にチームワークや協調性を身につけてしまった人間が、40歳代、50歳代になって、これまでのやり方や発想から180度転換せよと言ってみても、そうそうできるものではない」
 
次の経営者を選ぶのに管理職の中から選ぶのはダメで、経営者群の中から選ぶのが理想的と考えている。なんらかの事業責任者(PL責任を持つ)というのは管理職というよりも経営者という立場に近い。その意味で経営者予備軍を育てるためには、複数の事業を展開していて、それぞれに事業責任者をちゃんとアサインしている状態が望ましい。単一事業しかやっていない会社では事業責任者は現在の社長になってしまうので、次の経営者を育てるのも選定するのも不可能ではないにせよ難しい。
結局、経営者って孤独な存在で、意思決定をするときに一人で決めなければならないし結果責任が全部覆いかぶさってくる。この孤独感に耐えられる人にしかできない仕事だ。管理職との違いは「量的違い」ではなく「質的違い」だと考えている。
 

アップル社の「制服」

最近読んだ本にこんなことが書いてあった。

----- 引用開始 p.137 -----
アップルのとある上級管理職がこんな話をしてくれた。昇進を間近に控えていたとき、上司からもしかしたらスティーブ・ジョブズに会えるかもしれないと言われた。そうなったら、かならずユニフォームを着てこいという。彼はアップルに入社して日が浅かったので、どういう意味ですかと聞いた。そして、その答えの細かさに唖然とした。ユニフォームとは、まずデザイナーものでないジーンズ。リーバイス、ギャップ、ラングラーまでならOK。プレーンな白シャツで、カジュアル感を出すために袖をまくる。襟ボタンはいちばん上だけ外して、下にはTシャツ。腕時計は地味で機能的なもの。靴はローファーかスニーカー。革靴は避けたほうが無難で、フォーマル系は絶対にだめ。靴下は履いても履かなくてもいいが、けばけばしいものは避ける。メガネは目立たないもの。アクセサリーは付けず、コロンもなし。会議に持ち込んでいいのは、最新のマックブックだけ。「個性を感じさせるものは身に着けないことが原則」で、「スティーブが君を見たいように見られるように」するためだと言う。彼はユニフォームをスポーツバッグに入れて、車のトランクに六週間置きっぱなしにしていたが、残念ながらその機会はなかった。昇進はしたものの結局ジョブズに会えずじまいだった。
 アップルがカルトだと言われるゆえんは、わけのわからない理念のために個性を捨てさせる、こうした行為にもある。
----- 引用終わり -----
『なぜハーバードビジネススクールでは営業を教えないのか? 拒絶から始まる世界一やりがいのある仕事』(フィリップ・デルヴス・ブロートン著、関美和訳、岩瀬大輔解説、プレジデント社、2013-08-31)

良かれ悪しかれ、シリコンバレー界隈でもアップル社は「特別な存在」ではあるし、このような「制服」を暗黙のうちに強要する会社は皆無に近いと思う。しかし「カルト的」とも言える、その宗教的な情熱もアップル社の成功の大きな要因の一つだとも認めざるをえない。

カルト的なほど強い企業文化だと経営的にはマイナスよりもプラスの方が多いんだろうな、というのが私の結論。
+ 社内承認プロセスなど、会社が必要とするプロセスが少なくなる。
+ チームワークの基盤となる。
+ 採用の方針が明確になる。
+ 長期の従業員定着率が高くなる。
- 採用に時間がかかる。文化的スクリーニングがあるから。
- 短期的には新入社員の定着率低い。強烈な文化とのミスマッチ。
- 世の中の変化に合わせることを怠りがちになるので、暴走して社会問題になりかねない?

一般に採用担当者の質問内容や採用/研修プロセスで、強烈な文化を持っているかどうかが分かってくる。
Airbnbでは「余命10年でもこの会社で働きたいですか?」とすべての候補者に質問するらしいし、Zappos(靴の通販)では新人研修が終わった後に、
1. 4000ドルもらってZapposを去る、
2. Zapposで働き続ける、
という2つのオプションを与えられて選んでもらうのだそうな。
私が採用インタビューに受けた質問で最も記憶にあるものの一つが、会って最初の質問が「どうして俺はお前を採用しないといけないんだ?証明してみろ! Why do I need to hire you? Prove it!」とイギリス人のボスから挑戦的に言われたことか。

国際チームのマネジメント能力

大抵の山は一人でも登山できるので、登山という行為は自分との闘いの側面が大きい。しかし、エベレストのような山となると、頂上まで行くのは一人かもしれないけれど、それを支える様々なスタッフがいるわけで、実際は「組織」で登っている。

その意味で高山の頂上を制覇するには組織を束ねる力が致命的に重要なはずだ。全く違う技量が必要だろうな、と思う。一人でどんなところでも登れる自信や技術・体力があっても高山を制覇できるわけではない、ということだ。

「日本人は個人では弱くても組織になると強い」とか「日本企業は戦略はいまいちだが、実行力は抜群」とか、よく外国人から言われルわけだから、チョモランマやK2のような8000メートル級の制覇は日本人チームがいっぱいいるはずなのだが、実際はそうでもない。その理由は、チームはチームでも日本人だけで構成されたチームではなくて、色々な国籍の人たちが入った国際チームだからなんだろうと考えている。

国際チームのマネージにおいて日本人が得意でない理由は「日本人は単に語学が弱いから」というよりも、自分とは異質の人たちをマネージする力が弱いから、なんだろうと考えている。今後の世界を考えると、国際チームを束ねることのできる日本人がもっともっと必要だ。観光立国を目指すにも、外国人をマネージして観光案内する人が草の根的にもっともっと必要だし、人口が減少していくんだから、成長している企業の職場には外国人もどんどん増えていくだろう。そういう人たちをマネージしていかないといけない。

常識という名の偏見

「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションのことを言う(Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. Einstein)」とはアインシュタインの言葉。「特定の状態でのみ当てはまる真実」を「どんな時でも当てはまる真実」と勘違いしていたら、まさに偏見/勘違いそのもの。自分の娘たちと会話してもよく自分の偏見に気付かされる。
「自分の年齢がいけばいくほど若い人と話す機会を多くつくらないと駄目だよ」と尊敬する経営者からアドバイスされたことがあるが、結局人生経験を多く積めば積むほど「特殊状況的真実」がいっぱい自分の中に折り重なっていて、それらの「常識」に思考が縛られてしまいがちになってしまう。ところが「常識のない」若い人たちと話すことによって、そのことに気付かされて、少しずつそういった「常識」(=偏見)がリセットされていく過程になる、ということだと理解している。