一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

新年の決意の達成がなぜ難しいか

タバコを辞めようと思ったら、交友関係を見直さないで辞めることは困難であろうことは容易に想像がつく。なぜなら喫煙家は喫煙家の友人を多く持ちがちであり、喫煙家と一緒に食べに行ったりしたときに禁煙を維持しようとするのは難しいからだ。
同様に、新年の決意(New year's resolution)を考えて、自分の何らかのbehaviorを変えようと決意するんだったら、交友関係・環境を見直す覚悟が必要だ。「今年は本を100冊読む!」とか思うんだったら、本好きな友人と頻繁に会って良書の意見交換をする機会が必要だろうし、お金を本に割けるだけの小遣いの交渉、および家の中に本を置くだけのスペースを確保をする必要もある。
特定の大学や大学院出身者が社会的成功をする傾向が見られることも、学校で教えられてきたコンテンツなんかよりもクラスメートとの卒業後の付き合い、向上心旺盛なマインドを互いに刺激し合う交友関係などの方がよほどその後の人生への影響力大きいのではないかと思う。

新年の決意をほとんどの人が達成できないのは、努力が足りないという側面よりもそれ以前の設計ができていないんだろうというのが私の仮説。その決意を実施するに当たり、自分の周りの環境の整備・変更が必要なのに、それを怠ってひたすら自分の努力だけで達成しようと思ったって無理ってもの。

人体六〇〇万年史と経営

人体六〇〇万年史 (ダニエル・E・リーバーマン著、早川書房)を読むと、類人猿と違って人間がなぜ文化を発達させたかと言うことについて、大脳発達よりも「骨盤の形状が変わって、左右にぶれずに、二足歩行で、長距離歩けるようになったこと」が類人猿と分かれた理由だったということらしい。つまり頭が良くなる前に、たくさん歩けるようになったことが大きい、ということ。
我々人間が走った最高速度は他の大型哺乳類と比較して遅いのだが、普通に歩く時速3〜4kmとかだと何十kmでも歩き続けることができる。
ところが猿の骨盤は人間のような形状になっていないので、ゆさゆさと左右にぶれて、数キロ歩くだけで疲れるほど、体重移動によってとてつもないカロリーを使ってしまうのだそうな。確かに、猿が歩くのを真似して歩くと疲れる。
人間が何十kmも歩けると何が得って、食料の確保だ。食べ物を求めて、どこまでも歩いて行くことができたわけだ。人間が哺乳類を素手で捕まえようと思うと足の最高速度が問題になってくるかもしれないけど、木の実を採るとかなるとどれだけの距離を移動できるか、という方が大切になってくる。移動できる距離が大きくなることによって環境変化に強くなるわけだ。
 
企業が生き残り続けるためにも、ネットだの人工知能だのいった社会の急激に変化するスピードについていく「自分が変化する最高速度」で勝負する会社もあるだろうけど、ゆっくりではあるかもしれないが、とんでもなく違う業界/市場へゆっくりと移行し続けることによって生き残る会社、というのもありだな、などと考える。

教訓を学ぶ勇気

御嶽山噴火 生還者の証言』(小川さゆり著、ヤマケイ新書、2016-10-05)の著者は、2014年9月の御嶽山の水蒸気爆発による噴火時に頂上近くにいたのにも関わらず、なんとか生き残った山岳ガイド。本の中に以下の記述があった。(p.150)

「たいてい言ってはいけないことが教訓の核心ではないかと私は思っている。その言ってはいけない教訓の核心は、災害で犠牲になった方の行動を非難しているように捉えられかねないからではないか。生き残った人の行動は、裏を返せば犠牲になった人があたかも劣っていたかのように捉えられるからではないか。教訓を伝えようとすれば、それは死者に鞭打つことと批判されるからではないか。」

この構造は、どんな災害や事件で生き残った人にも当てはまるものだ。生存することができた人が「自分が生き残ることができた原因」を当事者の視点から冷静に分析して正直にそのことを言うことができない。
例えば「津波が来ることを警告した市役所のアナウンスを聞いたら、ためらわずにすぐに山に逃げたことが良かった」とサバイバーが言ってしまえば、「アナウンスを聞いてすぐに逃げなかった人は馬鹿だと言うのか!」という非難を浴びてしまうことを恐れて、「単に私は運が良かっただけです」という当たり障りのないコメントしかできない。
災害等で亡くなった人には申し訳ないが、原因分析と人格とは切り離して教訓を学ぶ心的態度が必要だ。相手の心情を慮る優しさは必要だが、自然災害などからの教訓を学ぶ時には非情な厳しさが要る。
教訓を学ぶ勇気の無い者には、のちに同じ仕打ちを受ける可能性が高くなってしまう。

誤嚥事件

晩御飯を食べながら笑った時に誤嚥(ごえん)して、約90秒ほど呼吸ができなくなり、死にそうになった。家族によれば顔色がパープル(←次女の言い方)になり、土色になって、電話で救急車を呼びかけたところで、呼吸できるようになり、なんとか生き残った。
いや〜、本当に死ぬかと思った。
ゲホゲホ咳き込んで息を吐くことができるけど、吸い込むことができない。したがって肺に空気が入らないので、酸欠状態になり、目の前の景色(私の場合、台所のシンク界隈だったが)に星がいっぱいキラキラしている状態にまでなり(この時点で呼吸できなくなって60秒ほど)、その時私が頭の中で考えたことは:
「いや、待てよ。この状況をちゃんと論理的に考えてみよう。苦しいものだから自然に全身に力が入ってしまっているから呼吸できないのかもしれない。もっと力を抜いて気道を広げるようにしてゆっくり呼吸をすれば息を吸えるかもしれない」
と考え直し、無理やりゲホゲホせず、酸欠で死にそうでも落ち着いてゆっくり息を吸ってみた。最初はできない。(この時点で呼吸できなくなって80秒経過)しかしもっと力を抜いてしゃがみこんで気が遠くなりつつあったが、ゆっくり息を吸ったら、少し吸えた。空気が肺に入ってくる。そのおかげで意識が少しはっきりしてきて、もう一度息を吸ってみるともっと多くの空気が肺に入ってくる。その空気を勢いよく吐き出したら、誤嚥していたものが出てきたようで、急に呼吸が楽になって、目の前の星は消えてなくなっていき、意識も明瞭になった。

今晩の誤嚥事件の教訓としては:
1. 高齢者だけが誤嚥で死ぬわけではない。
2. 早食いとかせず、ゆっくりよく噛んで飲み込むこと。
3. 食物を飲み込む時のタイミングで笑ったりしないこと。
4. 誤嚥して息ができなくなったら、焦らず体の力を抜いてゆっくり深呼吸するように試みる。
5. 誤嚥すると周りの人々は最初大したことがないと思っているが、呼吸ができない人の顔色を見て初めて深刻さが分かって、慌てて対策を講じ始める。

6. 普段から誤嚥をした人にどんなことをやらないといけないかを学習する必要性がある。

ナメクジとカタツムリと企業戦略

ナメクジとカタツムリは似た生物(どちらも軟体動物門・腹足綱)だが、化石の解析から以下のことが分かっている。(足立則夫著『ナメクジの言い分』が詳しい。)
3億1千万年ほど前にカタツムリは現れて、2億年ほど前にナメクジが登場している。つまりナメクジが進化してカタツムリになった訳ではなく、カタツムリの殻を脱ぎ捨てたものがナメクジなのだ。殻は外敵から身を守ってくれるし、乾燥を防ぐのに役立つ。その意味で、ある日突然、殻を作れないカタツムリが突然変異で誕生した時には普通に考えれば生存に不利な変化だ。
ナメクジの生存にとって大きかったのは、殻を脱ぎすてることによって:
1. カタツムリが入り込めない隙間に入れることにより、従来取れなかった場所にある餌を取れるようになった。
2. 殻の主成分はカルシウム。したがって殻を捨てることによってカルシウムをたくさん摂る必要がなくなった。つまり少ない食料で生き残っていけるようになった。
 
企業戦略も同じようなことが言えると考えている。大手の競合企業が見捨てている小さなセグメントを取りに行くことによって十分中小企業なら生存できることもあるとか、殻を脱ぎすてるみたいに、何か会社にとって重要だと考えていたものを捨てて身軽になってみると、むしろうまく行くとか。インテルが80年代にメモリーチップの製造をやめたらうまく行ったとか。
 
ちなみにカタツムリの殻って、体から滲み出た石灰分が固まってできていて、無理に体から引き剥がそうとするとカタツムリは死んでしまう。殻が多少壊れたり傷ついても時間が経つとちゃんと修復されているところをみると、殻にも血が通っているのだ。私は小学生の時に残酷な男の子だったので、カタツムリの殻をはぐとナメクジになるのではないかと考えて、殻を無理やり引き剥がす実験を一人でやっていて何匹もカタツムリを結果的に殺してしまったことがある。他にもカタツムリに塩をかけてもナメクジ同様、浸透圧の関係で小さくなって死んでしまうことを実験によって小学生の時に確かめていたりする。

理不尽に見える学校のルールが意図していること

中学生2年生の長女から「なんで学校に化粧して行っちゃ駄目なの?」という質問を受けたので、理由を考えてみた。
化粧したからといって法律違反であるわけではなく、特定の誰かを傷つけるわけでもないだろう。したがって答えとしては「学校が禁じているから」としか言えない。
髪の毛を染めて学校に来てはいけない、とか、スカートは膝上何cmより上まで短くしてはならない、とかいった、一見、意味のないルールを学校が守らせるのにも、それなりに意味があるのだろうと考えている。
「学校が決めたルールを破る生徒は非行に走りがちである」という相関関係があると、長年の生徒の観察から学校側は判断し、その相関関係は因果関係でもある、と考えているのだろう。つまり「学校が決めたルールを守らない」ことが原因となって、「非行に走る」子が増えるという結果をもたらす、と。
私もこれらに相関関係はありそうだと考えているが、強い因果関係はないと考えている。「学校の決めたルールを破る」という事象と「非行に走る」事象は共通の原因である「子供の身なり・ふるまい、学校のルールに無関心なほど、自分の子供の教育に無関心な親」というのが存在しているだけなんじゃないのか?

一方学校側の本音レベルでは「だって、制服や髪型とかが乱れた生徒が多いと親に対する学校の印象が悪くなって翌年の志願者数が減りますから」ということかもしれない。

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企業は成長し続けなければならない存在

この数年、同族企業の経営者と会う機会が多いのだが、「成長願望」が無くて「現状維持」というか「とりあえず先祖代々続いたこの会社を存続させることが私の使命」と割り切っている経営者が散見される。もちろん倒産させるわけにはいかないので存続させようとするのは最優先で大事なのだが、現状維持しようと思って現状維持できるわけではなく、成長しようと思って必死にがんばっても結果的に現状維持という結果になっているのが世の常であることを分かっていない。
以前、うちの娘が「金メダルは無理だと思うけど、銀メダルか銅メダルを取りたいなぁ」と言ってきた時に、私が「銀メダルや銅メダルを取っている人は、間違いなくみんな金メダルを取るつもりで何年も苦しい練習をしてきたわけで、結果的に銀や銅になっているだけの話。最初から銀や銅を狙っている選手はそもそもメダルなんか取れないよ」と言ったことがある。話としては同じことだ。

私は企業の成長には3つの目的があると考えている。

1. 投資家のニーズを満たすため。
要するに株価を上げ続けないといけない宿命を企業は背負っている場合がほとんど。同族企業の場合、株主=経営陣になっている場合が多いので、株主(親族だらけだが)が「成長しようとしてリスキーなことをしなくてもいいよ」と思っていると、この目的は当てはまらないこともありうる。

2. 顧客のニーズを満たすと同時に規模の拡大を通じて競争力を増すため。
規模の経済(economies of scale)が働く業界(たいていの業界はそうだが)では大きくなることがコスト競争力を増し、結果的に自社の優位性につながってくる。同族企業でもこれは当てはまるはず。規模の経済が全く働かない業界というのも想像が難しいが、絵描きとかいった芸術系はそうかな?

3. 社員にさらなる成長の実感と機会を与えるため。
成長していない事業にたずさわる人は、ビジネスパーソンとしての成長の機会が全くないか、というとそうでもないのだが、やはりビジネスパーソンはその事業の成長とともに成長する、という側面は否定できない。この点を考えていない経営者は結構多い。現状維持であってもビジネスパーソンとして成長はするものの、「3年で事業規模を2倍にしてみろ!」と発破をかけられた事業責任者は成長の速度も違うだろう。
急速に縮小していく市場の中で、それでもなんとかして利益を出そうとする事業責任者も相当苦しむだけに成長するのかもしれないが。写真フィルム事業担当者とかデジカメ事業責任者とか。

経営者は「日本の人口が減るんだから市場が小さくなって当たり前だし、うちの売上の小さくなったって当たり前だよね」なんて気軽に言わない欲しいもんだ。オートバイの市場は日本では1982年をピークに今では6分の1くらいに縮小しているが、ハーレーダビッドソンジャパンの売上は70年代に進出してきてからずっと右肩上がりだったりする。意志あるところに道あり。成長し続けることを目指してほしい。