一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

伝記と時代背景

小学生の時にキューリー夫妻の伝記を読んだ時に、科学の発見や発明というのは命がけだな、と思った記憶がある。しかし大人になって、あらためてキューリー夫人とかの話しを読むと、当たり前だが子供の時に気付かなかったことに色々と気付かされる。

『世にも奇妙な人体実験の歴史』トレヴァー・ノートン著 文藝春秋社 2012-07-10 Smoking Ears and Screaming Teeth: A Celebration of Self-Experimenters, by Trevor Nortonという本に以下のような記述がある。

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 1903年、夫妻はノーベル物理学賞を共同受賞したが、マリーが貧血を患っていたためストックホルムの授賞式には出席できなかった。その貧血は、ラジウムによる被爆の最初の徴候だったかもしれない。彼女は流産したばかりでもあった。

 ラジウムの入ったチューブをピエールが高温になるまで熱していた際、試験管が爆発し、危険な中身が四方に飛び散った。その後、彼は視力に異常を感じ、研究に支障を来すほどの両足の激痛に悩まされるようになった。1906年、彼は馬車に轢かれ、車輪が彼の頭蓋骨を砕いた。即死だった。

 マリーは悲しみに打ちひしがれたが、ついには研究に慰めを見出した。「実験室がなかったら、生きてはいけませんでした」と彼女は語っている。ピエールの跡を継いで放射線物理学教授に就任するよう、ソルボンヌ大学は彼女を招聘した。女性の大学教授就任はそれまで先例がなかったので、彼女は最初の数年間は非常勤講師として大学に勤め、その後教授に昇格した。1911年、彼女は再びノーベル賞を受賞し(今回は化学賞)、二部門でノーベル賞を受賞した最初の人物となった。それでも、彼女はフランス科学アカデミーの会員には選ばれなかった。それは結局のところ、彼女が女性だったからである。

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歴史上の出来事にはすべて当時の社会的コンテクスト(文脈)というものがある。科学的発見もそうだし、絵画もその絵が描かれた時代的背景というものがある。そういう背景情報を理解してその人物を理解しないといけないのだろう。

伝記は子供の頃に読むものだと思っていたが、大人になってからは大人になってからの伝記の読み方というものがある、ということを考えさせられました。

人工知能考:いかに悪人がAIを使って悪さをさせないかが大切。

先日、人工知能(AI)の勉強会に参加した。私の問題意識は簡単に書くと:
・AIという技術そのものは善でも悪でもない。包丁や核兵器そのものが善でも悪でもないの同じ。使う人によって善にも悪にもなりうる。
・つまりAIを使って悪事をなそうとする人々(ISとかアルカイダとか)がいかにしてAIを使って悪事をなそうとするのを阻止するか、というのが問題だ。
核兵器の場合は、作り方の情報とかは簡単にネット上で入手できる(らしい)が、実際に核兵器をテロリストらが作れないのは、濃縮ウランを入手するのが極めて困難だからだ。
・AIの場合は、何がこの「濃縮ウラン」に相当するものなのか、分かりにくい。
・AIのアルゴリズム自体はおそらく簡単に入手できると思われる。ネット経由で入手できるか、ISがAI研究者を誘拐するか勧誘するかすれば、彼らの頭の中のアルゴリズムを入手することも比較的容易だろう。
・しかし現状入手が難しいのは、AIを実用的なレベルで動かすこと(計算できること)ができるほどのcomputing powerを持つスーパーコンピューターというハードだろう。これはとてつもなく高価だし、輸出規制とか色々厳しい。
・それでもムーアの法則通りに計算能力が高まり続けて行ったら、10年後とかには今のスパコン並みの計算能力がノートパソコンレベルでも可能になっているかもしれない。
・となると、悪人にとってアルゴリズムだけでなくハードウェアも比較的入手が容易になってしまっていると思われる。
・悪人がAIを使って悪さをするのを抑止するには、善人が持つAIが、悪人が持つAIを常に圧倒的に上回るソフトとハードを持ち続ける、ということなのかもしれない。

失敗力とリスク耐性

「自分がやったことは大体失敗してきた。しかし、ときにはびっくりするくらいうまく行くことがある。それを味わうと何回失敗しても怖くない」(大村智、2015年ノーベル医学・生理学受賞)という言葉を知ると、要するに失敗に対する感性を低くして、いわば「失敗力」を高めることが大切だな、と思う。
事をなすには、終始楽観的であることが大切なんだけど、悲観的に準備しておくこともリスク管理という意味では必要。この悲観と楽観のバランスをいかにして適切に保つか、ということが難しい。
私の場合、もともと超楽観的な人間だけに、悲観的に準備するのが性に合わなかった。でも悲観的に準備することが仕事の一部になってしまったので、強制的に悲観的に考えて手を打っておく必要が生じ、その結果、両方のバランスを何とかとれるようになったけれど、それでも悲観的に考えるのは結構意識してやらないと忘れてしまいがち。
今までの自分の人生を振り返ると、客観的には「リスクを取りすぎ」だと思うんだけど、結果的にはOKという人生。こういう人についていくには、それなりにリスク耐性がないといけないが、自分が取っているリスクを教えてあげないのも、リスク耐性の少ない人への思いやりなのかもしれない。

読書というメンタルトレーニング

米国の小学校でボランティアのゲストスピーカーとして「日本の小学校」とか「日本の政治制度」といったテーマで話したりしていたことがあるのだが、米国の学校ってやたらと読書をさせる。国語の授業って要するに読書の授業なんだよね。私が見た中学の国語の授業のシラバスを見ると、『華麗なるギャツビー』とか『白鯨』とか1年で20冊くらい読まされる感じになっていた。
うちの娘達、浦安市で公立の小学校に行っているが、さすがに夏休みの時は読書の宿題があるが、普通の授業で国語の教科書を読んでくる宿題はあるものの、それ以外に読書の宿題が出たことがない。1週間に1時間読書タイムというのがあるようだが、それだけ。
こんなのでいいのか?

本をまったく読まないビジネスマン(年間5冊以下とか)は信用ならないので(←私の偏見です)、採用インタビューで最近6か月で読んだ本を3冊くらいあげさせて考えたことを聞いたりしている。その時によく思うのだが、子供の頃に本をよく読んでいない人が大人になったとたん、読書家になる、というのはほとんどない。子供の頃から読書の習慣/トレーニングをしておかないといけない、ということなんだろう。

読書は頭にかかる負荷がテレビなどに比べて重いので、それなりの集中力、想像力、思考力が必要とされる作業だ。
幼児虐待等を受けると学校の成績の中でも特に算数の成績が低くなる傾向にあるという結論の論文を読んだことがある。他の科目に比べて算数の問題を解くには一貫した集中力、情緒の安定がより必要だからなのではないか、というのがその人の仮説だったのだが、読書の能力もそうなのかもしれない。ちなみに、ある一定量までの夫婦喧嘩の頻度と子供の成績とは相関関係が発見されなかったらしく、夫婦喧嘩はconflict resolutionやstress managementのよいサンプルを子供に見せていることも考えられるのだそうな。w ただしあまりに頻繁だと成績との相関関係が出てくるらしいですが。これは想像がつく。

たぶん現代人は暇つぶし的にスマホでブログとかニュースとかを読んでいるので、10年前よりも読んでいる「活字の量」という意味では増えているのかもしれないが、それが読書というトレーニングと同等の効果をもたらしているのかどうかに興味がある。本に比べて、スマホで読むような文章は一つ一つが短いので、長時間の集中力を必要とせず、知的トレーニングとしての効果は薄いのではないか、というのが私の仮説なのだが。

自分自身のバイアスを自覚することが大切

社会的にハンディキャップを背負っている人たち(深刻な病や身障者を抱える家庭、極度な貧困、シングルマザーなど)に対する社会保障の充実に最も反対する人たちって、そういうハンディキャップを経験しながらも懸命に努力して、いわば立派と言える人生を成し遂げてきた人たちだったりする。
「私だって、あなた方と同じ悲惨な環境だったのよ! それでも必死にがんばってここまでやってきたの。甘えるんじゃないわよ」と。確かにそれ自体は美談なのではあるが、社会保障は「平凡な努力でも生きていける環境作りや支援」であって、「非凡な努力を求める」ことではないと思う。
要するに、人は自分ができたことをできない人を過小評価する傾向にあり、自分ができないことをできる人を過大評価する傾向にある、ということなんだろう。会社の人事考課時に部下とかの評価の時にこういうバイアスがあることを自覚することが必要だ。

会社で部下に対して「勉強不足だよ」とか「だらしないなぁ」とは思うのだが、私がやってきた(非凡な)努力をその人たちに対して「やって当然のように期待」するのも間違いだよなぁ、と考えてしまった。

 

マーケティング職の候補者を面接して思ったこと

私が事業のマーケティング戦略の概要を説明したら、「事前にずいぶんと論理的に考えているんですね。でも考えている仮説が正しいとは限らないので、そこまで考えずに実際の変化する状況や現実に直面した直感を元にしてアクションをしていったほうがいいんじゃないですか?」と言ってきた。この人の言うことは分かるのだが、非常に違和感を感じて、その違和感の原因を考えてみた。

もちろん私が持っている仮説は仮説でしかない。現実が仮説を裏切ることもあるだろう。しかし、失敗した時に、ロジカルに詳細に考え抜いたことが活きてくると考えている。なぜなら、失敗を検証することができるからだ。直感に頼ったアクションは、あてずっぽう(a shot in the dark)と同じ。これでは、失敗した時に検証のしようがない。「運がなかったねぇ~」という感想しかないだろう。
この時に重要なのは仮説の精度や正確さということになる。つまり、自分の中で確信が持てるまで考えに考え抜くこと。思考の体力勝負だ。
そしてその事業を推進するチーム内で確信が強ければ強いほど、成功の可能性は高まる。関係者が確信を持って事業を推進するから、当然事業に勢いが生まれるし、プレイヤーのモチベーションも高い。その空気は周りに感染していく。だから、仮説が多少間違っていてもそれを帳消しにするほどの結果になってしまう。これが実は一番大きい。

だから「ビジネスって博打だよね」という人って信用できない。ビジネスには不確実性はつきものなんだけど、考え抜けば「絶対にこうすればこうなって成功できるはずだ」と本人は確信を持って事業をやれるはずなのだ。考え抜いている本人にしてみれば博打というほど不確かなものではないつもりなのだ。だからそんな台詞を軽々しく言えるわけがない。

テレビ番組のネイティブ広告考

テレビ番組のネイティブ広告(native advertisement)の手法を今朝の通勤時に電車の中で考えた。ネイティブ広告とは、例えばtwitterfacebookがやっているように、コンテンツ(文章や画像や動画など)と同じ文脈で表示される広告で、一見したところすぐに広告だとわからなく、それなりにコンテンツ上の価値があるものも多い。

昔からProduct placementというマーケティング手法があって、たとえばBMWが007シリーズのスポンサーの一人になって、ジェームズ・ボンドBMWの改造車をかっこよく使うシーンを作ってもらい、映画を見た人のBMWを購入する意欲を高める、というような手法はあったが、あれもネイティブ広告と言えなくもない。

テレビ番組の中にネイティブ広告を埋め込もうと思ったら、ドラマの中で出演者が突然「そういえば、こんな時にこのアプリが便利なんだよねぇ~」とか言い出して、(わざとらしいが)そのアプリが軽く(?)宣伝される場面を挿入しておく、とか。
あるいは、視聴者がテレビ番組の録画でCMを自動であれ手動であれスキップしてしまうことの対策として、テレビ局がテレビ番組内でPicture in pictureのように、画面の片隅で小さくCMを流し続けることをやるかもしれない。視聴者にはうっとおしいんだけど、録画で番組を見る視聴者に、スポンサー様のCMを何としてでも見せるにはこんな手段しかないんじゃなかろうか?
YouTubeのように最初に数秒広告を強制的に見せて、それからCMをスキップ可能にする、という手法も「もがいているなぁ」という感じがする。

いづれにせよ、動画上でネイティブ広告って「うっとおしい感」がつきまとう。twitter/facebook上のネイティブ広告が、まだ一応受け入れられているのは基本静止画だからだと思っている。自分で視聴するものは自分でコントロールしたいというcontrollabilityというイシューだ。ネイティブ広告を無理やり見せられても、twitter/facebookだと、自分でそのネイティブ広告をほとんど読まずに次へ進むことができる。一方、動画の中にネイティブ広告を入れられると自分でコントロールできないから、「うっとおしい感」が生じてしまうのだ。

テレビ業界はCMスキップに対する対策がないまま進むと、スポンサー離れが進んで、そのまま安楽死への道しかなくなる。したがって、今後生き残っていこうと思うのならば、
1. 視聴者に受け入れられる、何らかのネイティブ広告の手法を考案する
2. 自分のプラットフォームを離れて、例えばhuluなどへの有料でのコンテンツ配信とか、ビジネスモデルを全く変えていく、
というようなことをやっていかないといけないだろうな。今はひたすら安楽死への道を走っているように思える。