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一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

「無節操に」自分の仮説を捨てる

何か新しいことをやろうとすると、未知の要素が多いので、仮説をいくつか持って始まるわけだが、実際に始めてみると、自分の立てた仮説の正しさを証明しようという意識が強くなりがちだ。でも、仮説思考の価値を生かすために本当に大切なのは「仮説を証明する」という態度ではなく、「もっと良い仮説があるのではないか」、「この仮説は間違っているのではないか」という謙虚な態度。
仮説が素晴らしいのは、仮説はただ単に考え/概念にしかすぎないから、いつでも捨てられ、新しく、ベターな仮説を取り入れることができるということ。だから当初仮説を裏切る事実に遭遇した場合には、自分の持っている仮説を勇気(?)を持って捨てることだ。
当初仮説を捨てられないのは、
1. その仮説を考案するために自分が考え抜いた時間(←sunk costだ)がもったいないような気がする、
2. その仮説に基づいてつくりあげたビジネスモデル(収益メカニズム、等)の変更を余儀なくされるので面倒くさい、

というあたりか。
間違っているものをいつまでも保持し続けるのではなく、少しでもベターなものに乗り換える「無節操さ」が必要だ。

パーキンソンの法則

パーキンソンの法則というと、私にとっては「仕事というのは、時間があるだけ増える」、だから「役人の数は、仕事の量とは無関係に増え続ける」という内容で記憶しているのだが、それ以外に調べてみて考えさせられたのが:
「(一人の求人枠について)完璧な広告を出した場合には、たった一人の応募者しかない。したがって、2人以上の応募者が現れた場合には、提示金額が高すぎたのだ。」

どこまで潜在層にリーチできる媒体かとか何回露出したかとか細かいイシューがあることはあるが、確かに、一人の枠に100人も応募が来るような募集要項は採用担当者の事務を増やすだけだ。


以前、スウェーデン系家具インテリア大型店で働いている時に、スウェーデン人の幹部から聞いた話。「店舗を新しくオープンする時に400人採用しないといけなかったが、応募が4,000人来た。それらの履歴書の山を半分に割って捨てて、残りの半分の履歴書だけを見て次のステップへ進んだ。君も捨てられる半分の側にいるような幸運が付いていない人を採用したくないだろう?」と言われたという話。そんな考え方ってありかぁ!?

顧客の意見 vs. 自分の考え

イノベーションのジレンマ』のクリステンセンの発見を、簡単にまとめると:
失敗した企業は、新しいアイディアを無視したわけではなく、それとは全く反対に、多くの場合、問題になっているテクノロジーを率先して開発してはいる。マーケットリーダーなのだから当然と言えば当然だ。でも市場に出さなかった。なぜか? 彼らの顧客が新製品に反対したか、無関心だったから。
「必要がない」「特徴が分からない」「我々が探しているものではない」「無意味な考えに研究開発資金を無駄にするな」というようなことを顧客は言う。
シュガート、マイクロポリス、プリアム、クアンタム、ウエスタンデジタルなどといったハードディスクメーカーは、残念ながら顧客の意に従うというマーケティングのベストプラクティスの正しさを信じたために、非常に大きな犠牲を払った。
つまり「顧客は常に正しいどころか、企業の死神にもなる」ということだ。

顧客が常に正しいわけではなくても、常に間違っているわけでもない。正しい時と間違っている時がある、ということなのだから、結局事業責任者なりマーケターなりの判断がそこに常に介入してくる。

クリステンセンの本を読んでから、部下から相談されて「お客さんがそう言っているんだったら、そうしたら?」という言葉は使わないようにしている。顧客からの意見も重要なインプットだが、自分の考えるロジックも重要なインプットだ。これらが一致する時は意思決定に迷いはないが、不一致の場合は色々と考えても埒が明かない場合、周りと話したりする。でも多くの人が「お客さんがそう言うんだったらそうしたらいいんじゃないの?」と大して考えもせずに言ってくる。そうした人は、私の場合「相談リスト」から外されていく。
意見が分かれるような論点をちゃんと考えるという作業は疲れる。だから安易に思考節約したがる人の気持ちは分かるが、私がその人に相談するという時点で「普通のではない」ということに気付いて、ちゃんと考えてほしいものだ。逆に人から相談されることもあるが、その場で答えず「明日までに考えておくから、明日私の考えを伝える」とする場合が多い。じっくりフレームワークとか考えて、全体感のある回答をしたいから。

自分が持っている前提を疑う

1900年のニューヨーク市では、一日あたり1100トンの馬糞、220キロリットルの尿が路上に垂れ流されていた。市内では毎年何千頭もの馬が死亡し、市当局が腐って膨れあがった死骸を片づけなければならなかった。都会において馬が諸手を挙げて歓迎されていたわけではなかった。
1896年にはアメリカですでに100万台以上の自転車が売れたのに、車の時代の到来を予見できた人はほとんどいない。1900年にジャーナリストのマーク・サリバンは30年後に当時を振り返り、「街中でめったに馬を見ることのない時代が来るなど、とうてい信じられない予言に思えた」と語っている。
ずっと持っている「前提」を疑うことは、人間は極めて不得手、ということか。とりあえず不得手であることを自分で認識することが第一歩で、それからは「前提を疑う」習慣を身につけていく努力を重ねるしかないか。
 

目標を明確に意識すること

1979年に、ハーバード大学MBAの卒業生に将来の目標ついてインタビューしたところ、回答と構成比はこういう結果になった。
A 目標を紙に書いた。3%
B 目標はあったが、紙には書かなかった。13%
C 目標を持っていなかった。84%
10年後、追跡調査をしてみると、Bの平均収入はCの2倍、Aの平均収入は残りの97%(BとCを足した人々)の約10倍になっていたという。(『ゴールーーー最速で成果が上がる21ステップ』ブライアン・トレーシー著、PHP研究所、2006-04)
HBSに行くような人の84%が目標を持っていないことにも驚くが、ここから学べるレッスンとしては「明確な目標を持って、その実現を強く願い、心に刻むことによって、成功する確率は断然高くなる」ということだ。
だから能力が多少足りなくても、目標を明確に意識して日々生活することって大切だ。非常に単純な話なんだが、忘れがちだ。心に言い聞かせよう。
 

現実的なリスク管理

何らかの不確実性やリスクはビジネスを進めていくうえで避けられないが、最近よく考えるのは、ネガティブな事象が発生する確率を想定するのは困難な場合が多く、発生確率で考えてもしかたがないということ。担当する人、事業内容、時、競合や顧客の環境、などの組み合わせはその時1回しかないわけで、person specificであり、Time specificなんだよね。
だから発生確率ではなく、その事象が不幸にも発生してしまったら、元の状態に復旧する時間(Time to restore)で管理したほうがよいということ。つまり元の状態に復旧するための時間が長すぎるのなら、それを短くするための準備/投資を行っておく、というリスク管理のほうが現実的な場合が多いということ。
 

選挙と民主主義

「たとえ5000万人が間違ったことを正しいと主張したところで、真実にはならない」(イギリスの作家サマセット・モーム)という言葉を引用して選挙で負けた人たちは言いたいだろうが、民主主義は選挙がすべてなので、負けは負け。負けた候補者が自分が正しいと思っていることを主張しても、有権者に受け入れられて投票時に自分の名前を書いてくれない限りは物事は進まない。
 
正しいことを実現しようと思うと:
1. 正しいことを主張し何としても実行しようとする候補者が現れる。
2. その候補者が地盤(支持組織)・看板(知名度)・かばん(金)を持っていてくれれば当選可能性が高まる。
3. その候補者が有権者へ説明して説得する能力が高い。
4. そこの有権者が「正しいこと」を理解する能力が比較的高く、かつ投票行動にきちんと出ること。
というような条件が重ならないと実現しない。大抵はそうはならないので、全面的に正しいことを行う候補者ではなく、斑(まだら)色の政策になってしまう。それでも前進は前進だ。
ただし、各種政策をパッケージで「せーの!」で一気に実施しないと駄目で、個別の政策を順次やっていくだけではできないような改革(外国人の受け入れ問題とか税制改革とか)の場合は、上記の条件がいくつか重ならないと不可能。
「機が熟する」のを待つしかない、というあたりに民主主義の限界を感じたりする。それ自体、有権者の大半が納得して実行されるので良いところでもあることはありますが。
現代社会は複雑さが増して、何が「正しいこと」なのか、必ずしも明瞭ではないという問題もありますね。