たった10セントでこんなに人間の行動は変わる
『マッキンゼー流最高の社風のつくり方』(ニール・ドシ、リンゼイ・マクレガー著、日経BP, 2016-08-01、原題Primed to Perform, How to build the highest performing cultures through the science of total motivation.)という本を読んでいて、最も驚いたのがこの箇所。ちょっと長いが引用する。
たった10セントでこんなにも人間の行動が変わってしまうのか、という話。
--- quote p.107 ---
今が1972年だとする。あなたは買い物をしようとモールへ行ったが、何を買うつもりだったのか忘れてしまった。スマートフォンなどない時代だったので、公衆電話から家にいる配偶者に電話をかけた。電話ボックスから出ようとすると、目の前で見知らぬ人がフォルダーを落とし、中に入っていた書類がモールの床に散らばった。あなたは足を止めて、その回収を手伝うだろうか?
企業幹部にこの質問をすると、ほぼ全員が、手伝うと答える。しかし、2人の研究者が、実際にその状況を仕立てて調べたところ、手を貸したのはわずか4%だった。この実験結果を企業幹部に伝えると、彼らは大抵、被験者の学歴と生い立ちを尋ねる。そして、手を貸さなかった96%の人は基本的な価値観が劣っているのだ、と言う。冗談半分に、「その実験はニューヨークでやったのか?」と尋ねた人もいた(そうではなかった。実験はサンフランシスコとフィラデルフィアで行った)。これらの幹部の反応は、ごく当たり前のものだ。つまり彼らは、自分の直感に反するその結果を説明する答えを探したのだ。残念ながら、私たちは往々にして、間違った場所で答えを見つけようとするものだ。
研究者らは、実験に小さな変更を加えた。電話をかけた人が偶然見つけられるように、公衆電話のお釣りの返却口に10セント硬貨を1枚、入れておいたのだ。被験者はふいに10セント、リッチになった。このことが、困っている人に手を貸す華道家に影響するのだろうか?
大半の人と同じく、あなたは、たった10セントで行動が変わる人はいない、と思うはずだ。人間の決断は生来の性質に左右され、人助けするかしないかは、大人になるまでに決まるもので生涯変わらない、と私たちは考えがちだ。だが、それは思い込みに過ぎない。実のところ、10セント硬貨は大きな違いを生んだ。それを見つけた人の88%が、手を貸したのだ(10セントを置かない状況では、わずか4%だったのに)。
数年後、この研究者らは、ハードルを高くして同じ実験をした。電話ボックスの中に、宛名は書いてあるが切手を貼っていない封筒を置いた。問われるのは、10セント硬貨には、見ず知らずの人のために封筒に切手を貼って投函する気にさせる力があるかどうか、と言うことだ。たかだか10セントにそんな力はないと、誰も思うだろう。だが今回も、結果は直感を裏切った。硬貨がない時、封筒を投函した人はわずか10%だったが、硬貨があると、実に76%もの人が、切手を貼って投函したのである。
これらの実験からわかるのは、人はわずかな報酬で、シティズンシップ(市民としての責任と良識)を感じたり感じなかったりする、ということだ。これらの実験で観察された人の大半に関して、シティズンシップは、性格によってではなく、ちょっとした幸運な出来事によって喚起されたのだ。
--- unquote ---
「無節操に」自分の仮説を捨てる
何か新しいことをやろうとすると、未知の要素が多いので、仮説をいくつか持って始まるわけだが、実際に始めてみると、自分の立てた仮説の正しさを証明しようという意識が強くなりがちだ。でも、仮説思考の価値を生かすために本当に大切なのは「仮説を証明する」という態度ではなく、「もっと良い仮説があるのではないか」、「この仮説は間違っているのではないか」という謙虚な態度。
仮説が素晴らしいのは、仮説はただ単に考え/概念にしかすぎないから、いつでも捨てられ、新しく、ベターな仮説を取り入れることができるということ。だから当初仮説を裏切る事実に遭遇した場合には、自分の持っている仮説を勇気(?)を持って捨てることだ。
当初仮説を捨てられないのは、
1. その仮説を考案するために自分が考え抜いた時間(←sunk costだ)がもったいないような気がする、
2. その仮説に基づいてつくりあげたビジネスモデル(収益メカニズム、等)の変更を余儀なくされるので面倒くさい、
というあたりか。
間違っているものをいつまでも保持し続けるのではなく、少しでもベターなものに乗り換える「無節操さ」が必要だ。
パーキンソンの法則
パーキンソンの法則というと、私にとっては「仕事というのは、時間があるだけ増える」、だから「役人の数は、仕事の量とは無関係に増え続ける」という内容で記憶しているのだが、それ以外に調べてみて考えさせられたのが:
「(一人の求人枠について)完璧な広告を出した場合には、たった一人の応募者しかない。したがって、2人以上の応募者が現れた場合には、提示金額が高すぎたのだ。」
どこまで潜在層にリーチできる媒体かとか何回露出したかとか細かいイシューがあることはあるが、確かに、一人の枠に100人も応募が来るような募集要項は採用担当者の事務を増やすだけだ。
以前、スウェーデン系家具インテリア大型店で働いている時に、スウェーデン人の幹部から聞いた話。「店舗を新しくオープンする時に400人採用しないといけなかったが、応募が4,000人来た。それらの履歴書の山を半分に割って捨てて、残りの半分の履歴書だけを見て次のステップへ進んだ。君も捨てられる半分の側にいるような幸運が付いていない人を採用したくないだろう?」と言われたという話。そんな考え方ってありかぁ!?
顧客の意見 vs. 自分の考え
『イノベーションのジレンマ』のクリステンセンの発見を、簡単にまとめると:
失敗した企業は、新しいアイディアを無視したわけではなく、それとは全く反対に、多くの場合、問題になっているテクノロジーを率先して開発してはいる。マーケットリーダーなのだから当然と言えば当然だ。でも市場に出さなかった。なぜか? 彼らの顧客が新製品に反対したか、無関心だったから。
「必要がない」「特徴が分からない」「我々が探しているものではない」「無意味な考えに研究開発資金を無駄にするな」というようなことを顧客は言う。
シュガート、マイクロポリス、プリアム、クアンタム、ウエスタンデジタルなどといったハードディスクメーカーは、残念ながら顧客の意に従うというマーケティングのベストプラクティスの正しさを信じたために、非常に大きな犠牲を払った。
つまり「顧客は常に正しいどころか、企業の死神にもなる」ということだ。
顧客が常に正しいわけではなくても、常に間違っているわけでもない。正しい時と間違っている時がある、ということなのだから、結局事業責任者なりマーケターなりの判断がそこに常に介入してくる。
クリステンセンの本を読んでから、部下から相談されて「お客さんがそう言っているんだったら、そうしたら?」という言葉は使わないようにしている。顧客からの意見も重要なインプットだが、自分の考えるロジックも重要なインプットだ。これらが一致する時は意思決定に迷いはないが、不一致の場合は色々と考えても埒が明かない場合、周りと話したりする。でも多くの人が「お客さんがそう言うんだったらそうしたらいいんじゃないの?」と大して考えもせずに言ってくる。そうした人は、私の場合「相談リスト」から外されていく。
意見が分かれるような論点をちゃんと考えるという作業は疲れる。だから安易に思考節約したがる人の気持ちは分かるが、私がその人に相談するという時点で「普通のではない」ということに気付いて、ちゃんと考えてほしいものだ。逆に人から相談されることもあるが、その場で答えず「明日までに考えておくから、明日私の考えを伝える」とする場合が多い。じっくりフレームワークとか考えて、全体感のある回答をしたいから。