一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め:ダイバーシティ論

アフリカの諺で「早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め」というのがあるらしい。
登山でも同様で、単独行の方が自分のペースで行けるから早く目的地に着ける。団体行動だとボーイスカウトの行進みたいに一番遅い人のペースに合わせるからどうしてもスピードは落ちる。でも装備の種類や救急用品など色々な備えができるので人数が多いと遠くまで行ける。
集団で進むにしても、その集団内で多様性があるほうが遠くまで行ける。山登りで、みんな同じ装備を背負っていくのは意味がそんなになくて、それだと三角巾や消毒薬みたいな基本装備はみんな持っているけど、ヤマビル対策のスプレーとかアナフィキラシーショック対策のエピペンをさすがに持って山登りする人は少ない。けれどグループ登山だとそういうことも可能になってくる。
多様性(ダイバーシティ)が無い方が早く行ける理由も理解できる。同質だから、山登りだと同じような体力を持っている男性ばっかりとかだとペースが同じだから、集団でも目的地に早く着ける可能性が高い。それがダイバーシティがあると、色々と大変。体力ある人、無い人、荷物が多い人、少ない人、休みを頻繁に取りたい人、そうでない人、など。でも、予期せぬ事態に直面した時に対処策というかオプションが多くなる。登山で言ったら、鼻がよく効く人がいたら、獣臭(けものしゅう)をいち早く感じて熊が近くにいることをみんなに警告できたりとか、キノコや山菜に詳しい人がメンバーにいたら、遭難時にも生き残れる可能性が高くなる、とか。

人生も同様。一人で生きているよりもパートナーとか家族とかいると、自分一人では行けないところへも、振り返ってみると行けている。その家族の中でのダイバーシティがあるから家庭のマネジメントは大変だ。でも遠くへ行ける。

時を重ねても自分の中に残ること

本を購入した後に読み始めて「あれ?なんか読んだことがあるような...」と思って調べると、確かに10年前に読んでいたりする。でも再度読んでみると、かなり忘れているので、新鮮に読めたりする。

「こんなに忘れているんだったら、読んでいる意味があるのかいな?」などと考えたりもするが、忘れている、ということは自分の中で当時響くものがなかったから、というわけで、そんな中で自分の中に響くものだけが残っていくわけだ。

どうして自分の中に響くかというと、そのことに関して受容できるレセプターがあるからなわけで、そのことに関する問題意識がある(「アンテナが立っている」と言い換えてもいい)からだ。

となると、たくさん自分の中に残そうと思うと、問題意識の幅や深さを拡大しておくしかない。そのためにも勉強しておかないといけないんだが。

結局のところ、時を重ねても、自分の中に残ること、それが勉強(読書、経験、思考など)の成果であり、自分を形づくるすべてだと考えている。

人類の身体能力は低いのに比類ない繁栄を謳歌できているのはなぜか?

万物の霊長と呼ばれる人類と言えども、別に各身体的能力が他の動物に比べて優位にあるわけではない。聴力一つとっても、人間が探知できるのは20ヘルツから2万ヘルツの間のみ。2万ヘルツを超える高音域では、コウモリが真っ暗闇を飛行しながら超音波を発し、その反響を聞いて障害物を避け、飛んでいる昆虫を捕まえる聴力がある。
 
人間には探知できない20ヘルツ未満の低音域では、ゾウが低い声で群れの仲間と複雑なメッセージをやりとりしている。自然には人間の可聴域を超える音にあふれかえっているのだ。つまり自然の中では私たち人類はいわば聴覚障害者のようなものと言える。
嗅覚については人類は地球上のすべての生物の中で最も鈍感な部類に入る。他の生物の大部分は、においと味を頼りに生き延びている。人類の嗅覚は方向感覚がないので、周りの誰がおならをしたかも分からないほどだ。他の動物は嗅覚や味覚(←アリ、ミミズとかそうかな?)で方向を判断するのに。
 
視覚については人類は発達した部類に属する。人間とほぼ同じ色覚と光スペクトルを持つ動物は、リスとトガリネズミ、そして一部の蝶だけとされている。しかし、人間よりも優れた色覚を持つ動物はたくさんいるのだ。その筆頭が甲殻類。シャコは12種類、それに続くエイも10種類の光受容体を持ち、「三色型色覚」(青・緑・赤)として公認されている人間の目を大きく引き離している。
 
そう考えると、人類の比類ない繁栄、つまり地球の再生不可能な資源を採掘すると同時に、同じ地球に生きる他の種を悪びれもせず根絶やしにしうる、とてつもない力が生まれたのは、脳の発達、自由に動いて器用に扱える指、高い言語能力などによって支えられたコミュニケーション能力によってだろうな、というのが私の今の結論。個別の戦闘能力はライオンやトラなどと比較にならないほど弱いのに、高いコミュニケーション能力によって、より大きな集団で生き残りを協同で図っていくことが可能になったからだ。
その最強種である人類に対して、家畜となることによって繁栄を謳歌しているブタ、牛、馬、イヌ、ネコなどの繁栄・生き残り戦略もすばらしい選択だ。おそらく人類をうまく使っているのが穀物類(米、小麦、ライ麦など)だろう。人類がいなかったら、こんなに種として繁栄することもなかったはずだ。特に、人間が勝手に品種改良した結果、野生種よりも栄養価は高く、人間が手間暇かけて育てないと育つはずもないような生存能力しか持っていない品種(「巨峰」とか「コシヒカリ」とか)が繁栄している現実。コシヒカリだって、コケヒカリと農家から言われるくらい倒れやすい品種だ。
ここまでいくと、繁栄している人類を利用して弱くても繁栄することに成功している彼らの方が賢い戦略と言えるかもしれない。

芸術作品が創られた時の作業環境を想起すること

『色の力』(ジャン=ガブリエル・コース著、CCCメディアハウス、2016−06−05)という本を読んでいたら、以下の記述があった。
 
--- quote, p.29 ----
かつては、高名な画家であろうと貧乏絵描きであろうと、ろうそくの明かりだけで絵を描いていた。つまり画家たちは、「強いオレンジ」の光の下で、色彩を創りだしていたのだ。それなのに、美術館の学芸員たちは、画家たちが創作活動にうちこんでいた時に「見ていた」光のもとで彼らの絵を展示しようとせずに、現代の習慣にしたがって、「白色光」の照明を用いている! だから美術館の絵はとても「青く」見えるのだ。初期のピカソは、ろうそくの光で絵を描いていたらしい。そうだとすれば、彼の「青の時代」(ピカソが20代初期に暗青色を基調として描いていた時期)とは、作品を展示するときの照明が間違っているだけではないのか、との疑問を抱いてもよさそうだ…..。
--- unquote ---
 
ろうそくの明かりの下で描かれた絵画をろうそくの明かりの下で展示した絵画展とか企画したら、良さそうだな~。
ろうそくの明かりを頼りに彫刻作品とかも造られていたのなら、作成現場では何本かのろうそくを立てていただろうとは思うものの、相当陰影が強く出る環境だと思われる。360度に数十本のろうそくを立てて作業していたら話は別だが。
芸術作品を鑑賞する時は、作者の作業環境とかも想起して鑑賞したいものですね。

たった10セントでこんなに人間の行動は変わる

マッキンゼー流最高の社風のつくり方』(ニール・ドシ、リンゼイ・マクレガー著、日経BP, 2016-08-01、原題Primed to Perform, How to build the highest performing cultures through the science of total motivation.)という本を読んでいて、最も驚いたのがこの箇所。ちょっと長いが引用する。
たった10セントでこんなにも人間の行動が変わってしまうのか、という話。

--- quote p.107 ---

今が1972年だとする。あなたは買い物をしようとモールへ行ったが、何を買うつもりだったのか忘れてしまった。スマートフォンなどない時代だったので、公衆電話から家にいる配偶者に電話をかけた。電話ボックスから出ようとすると、目の前で見知らぬ人がフォルダーを落とし、中に入っていた書類がモールの床に散らばった。あなたは足を止めて、その回収を手伝うだろうか?
 企業幹部にこの質問をすると、ほぼ全員が、手伝うと答える。しかし、2人の研究者が、実際にその状況を仕立てて調べたところ、手を貸したのはわずか4%だった。この実験結果を企業幹部に伝えると、彼らは大抵、被験者の学歴と生い立ちを尋ねる。そして、手を貸さなかった96%の人は基本的な価値観が劣っているのだ、と言う。冗談半分に、「その実験はニューヨークでやったのか?」と尋ねた人もいた(そうではなかった。実験はサンフランシスコとフィラデルフィアで行った)。これらの幹部の反応は、ごく当たり前のものだ。つまり彼らは、自分の直感に反するその結果を説明する答えを探したのだ。残念ながら、私たちは往々にして、間違った場所で答えを見つけようとするものだ。
 研究者らは、実験に小さな変更を加えた。電話をかけた人が偶然見つけられるように、公衆電話のお釣りの返却口に10セント硬貨を1枚、入れておいたのだ。被験者はふいに10セント、リッチになった。このことが、困っている人に手を貸す華道家に影響するのだろうか?
 大半の人と同じく、あなたは、たった10セントで行動が変わる人はいない、と思うはずだ。人間の決断は生来の性質に左右され、人助けするかしないかは、大人になるまでに決まるもので生涯変わらない、と私たちは考えがちだ。だが、それは思い込みに過ぎない。実のところ、10セント硬貨は大きな違いを生んだ。それを見つけた人の88%が、手を貸したのだ(10セントを置かない状況では、わずか4%だったのに)。
 数年後、この研究者らは、ハードルを高くして同じ実験をした。電話ボックスの中に、宛名は書いてあるが切手を貼っていない封筒を置いた。問われるのは、10セント硬貨には、見ず知らずの人のために封筒に切手を貼って投函する気にさせる力があるかどうか、と言うことだ。たかだか10セントにそんな力はないと、誰も思うだろう。だが今回も、結果は直感を裏切った。硬貨がない時、封筒を投函した人はわずか10%だったが、硬貨があると、実に76%もの人が、切手を貼って投函したのである。
 これらの実験からわかるのは、人はわずかな報酬で、シティズンシップ(市民としての責任と良識)を感じたり感じなかったりする、ということだ。これらの実験で観察された人の大半に関して、シティズンシップは、性格によってではなく、ちょっとした幸運な出来事によって喚起されたのだ。
--- unquote ---

 

「無節操に」自分の仮説を捨てる

何か新しいことをやろうとすると、未知の要素が多いので、仮説をいくつか持って始まるわけだが、実際に始めてみると、自分の立てた仮説の正しさを証明しようという意識が強くなりがちだ。でも、仮説思考の価値を生かすために本当に大切なのは「仮説を証明する」という態度ではなく、「もっと良い仮説があるのではないか」、「この仮説は間違っているのではないか」という謙虚な態度。
仮説が素晴らしいのは、仮説はただ単に考え/概念にしかすぎないから、いつでも捨てられ、新しく、ベターな仮説を取り入れることができるということ。だから当初仮説を裏切る事実に遭遇した場合には、自分の持っている仮説を勇気(?)を持って捨てることだ。
当初仮説を捨てられないのは、
1. その仮説を考案するために自分が考え抜いた時間(←sunk costだ)がもったいないような気がする、
2. その仮説に基づいてつくりあげたビジネスモデル(収益メカニズム、等)の変更を余儀なくされるので面倒くさい、

というあたりか。
間違っているものをいつまでも保持し続けるのではなく、少しでもベターなものに乗り換える「無節操さ」が必要だ。

パーキンソンの法則

パーキンソンの法則というと、私にとっては「仕事というのは、時間があるだけ増える」、だから「役人の数は、仕事の量とは無関係に増え続ける」という内容で記憶しているのだが、それ以外に調べてみて考えさせられたのが:
「(一人の求人枠について)完璧な広告を出した場合には、たった一人の応募者しかない。したがって、2人以上の応募者が現れた場合には、提示金額が高すぎたのだ。」

どこまで潜在層にリーチできる媒体かとか何回露出したかとか細かいイシューがあることはあるが、確かに、一人の枠に100人も応募が来るような募集要項は採用担当者の事務を増やすだけだ。


以前、スウェーデン系家具インテリア大型店で働いている時に、スウェーデン人の幹部から聞いた話。「店舗を新しくオープンする時に400人採用しないといけなかったが、応募が4,000人来た。それらの履歴書の山を半分に割って捨てて、残りの半分の履歴書だけを見て次のステップへ進んだ。君も捨てられる半分の側にいるような幸運が付いていない人を採用したくないだろう?」と言われたという話。そんな考え方ってありかぁ!?