一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

認識とは不要な情報を捨てること

組織内のポジションが上になればなるほど細かいことは調べたり考えたりする暇はなくなるので、物事の本質にしか興味がなくなっていくものだ。部下からの長ったらしい報告を途中でさえぎって「要するに何が問題なんだ?」とか「俺に何をして欲しいのか結論から先に言え」と言いたくなるのもそういうことだ。実際、本質だけにフォーカスするだけで随分と時間あたりの生産性が異なる。
 
認識とは不要な情報を捨てることだ。特徴選択・特徴抽出が識別・認識の本質。
例えば雑多な動物の集団の中からウサギだけを抽出したいのなら、ウサギのどの特徴を選択・抽出してウサギをウサギと認識しているのか、なるべく正確に見つける必要がある。この「特徴選択」という作業が結構頭を使う。
ウサギだったら特徴選択という作業は容易だが、数多い商品群の中でどの商品で早く新バージョンを出した方が費用対効果を最大化できるか、ということを認識しようと思うと、その「特徴選択」は何にすべきか? 売れ行きのダウンの割合なのか、顧客の商品満足度の推移なのか、新商品開発費の大きさか、など、色々と考えないといけない。
部下がちゃんとこの作業をして本質のみを報告してくれたら意思決定が容易になるが、そうでなく逐一報告してくるとなると時間がかかるし、こちらの思考作業が格段に増える。
でも考えて意思決定していくのが上司の仕事である以上、有能でない部下も上手に使って育てていくしかない。

企業の新陳代謝力とベンチャー企業の出口戦略

「誰に向かって何を売るビジネスを営むのかという事業の「立地」や、売ると決めたものを売ると決めた相手にデリバリーするまでのプロセス(これを私は事業の「構え」と呼んでいます)は、思い立ったからといって、簡単に変えられるものではありません。だから、戦略性が高いのです。」(『どうする? 日本企業』三品和広著、東洋経済新報社、2011−08−18、p.25)
 
確かに誰に何を売る、というのは比較的容易に変えられるが、その売り方を変えるというのは変更が困難なため戦略性が高い。JTBのように全国に営業拠点を築いて営業力で勝負するという売り方が「明日からネット販売主体にします」とはできない。でもB2C主体に売っていましたが、今後はB2B顧客だけを相手にしていきます、と顧客を変更することだったらJTBには実行可能なはずだ。
アスクルのように顧客への直接配送を主体にしている会社が「アスクルストアという物理店を全国に展開します」と意思決定しても成功がおぼつかないだろう。
しかしその「事業の構え」も「事業の立地」(=市場や顧客)も、どちらもいつの日か陳腐化する。そうなってしまうとどれだけ製品を改良しても、オペレーションを強化しても歯止めがかからないことになる。
となると、企業の長期的繁栄の鍵は「新陳代謝力」ということに尽きる。
ネットワーク機器のシスコシステムズが新興企業の買収ばかりやって新陳代謝しているように、既存の日本の大手企業もベンチャー企業をどんどん買収していけばいいのに、と思う。でも大手企業の買収担当者に言わせれば、「魅力的なベンチャー企業がないんだよね」とよく言ってくる。
ベンチャーキャピタル側に言わせると「米国ではIPOもあれば大企業に売却というexitもある。しかし日本では事実上IPO以外のexit戦略がないのが問題」とも言ってくる。
その意味では、ニワトリータマゴの問題なのか。となると、どちらかがアクションをとるしかない。

早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め:ダイバーシティ論

アフリカの諺で「早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め」というのがあるらしい。
登山でも同様で、単独行の方が自分のペースで行けるから早く目的地に着ける。団体行動だとボーイスカウトの行進みたいに一番遅い人のペースに合わせるからどうしてもスピードは落ちる。でも装備の種類や救急用品など色々な備えができるので人数が多いと遠くまで行ける。
集団で進むにしても、その集団内で多様性があるほうが遠くまで行ける。山登りで、みんな同じ装備を背負っていくのは意味がそんなになくて、それだと三角巾や消毒薬みたいな基本装備はみんな持っているけど、ヤマビル対策のスプレーとかアナフィキラシーショック対策のエピペンをさすがに持って山登りする人は少ない。けれどグループ登山だとそういうことも可能になってくる。
多様性(ダイバーシティ)が無い方が早く行ける理由も理解できる。同質だから、山登りだと同じような体力を持っている男性ばっかりとかだとペースが同じだから、集団でも目的地に早く着ける可能性が高い。それがダイバーシティがあると、色々と大変。体力ある人、無い人、荷物が多い人、少ない人、休みを頻繁に取りたい人、そうでない人、など。でも、予期せぬ事態に直面した時に対処策というかオプションが多くなる。登山で言ったら、鼻がよく効く人がいたら、獣臭(けものしゅう)をいち早く感じて熊が近くにいることをみんなに警告できたりとか、キノコや山菜に詳しい人がメンバーにいたら、遭難時にも生き残れる可能性が高くなる、とか。

人生も同様。一人で生きているよりもパートナーとか家族とかいると、自分一人では行けないところへも、振り返ってみると行けている。その家族の中でのダイバーシティがあるから家庭のマネジメントは大変だ。でも遠くへ行ける。

時を重ねても自分の中に残ること

本を購入した後に読み始めて「あれ?なんか読んだことがあるような...」と思って調べると、確かに10年前に読んでいたりする。でも再度読んでみると、かなり忘れているので、新鮮に読めたりする。

「こんなに忘れているんだったら、読んでいる意味があるのかいな?」などと考えたりもするが、忘れている、ということは自分の中で当時響くものがなかったから、というわけで、そんな中で自分の中に響くものだけが残っていくわけだ。

どうして自分の中に響くかというと、そのことに関して受容できるレセプターがあるからなわけで、そのことに関する問題意識がある(「アンテナが立っている」と言い換えてもいい)からだ。

となると、たくさん自分の中に残そうと思うと、問題意識の幅や深さを拡大しておくしかない。そのためにも勉強しておかないといけないんだが。

結局のところ、時を重ねても、自分の中に残ること、それが勉強(読書、経験、思考など)の成果であり、自分を形づくるすべてだと考えている。

人類の身体能力は低いのに比類ない繁栄を謳歌できているのはなぜか?

万物の霊長と呼ばれる人類と言えども、別に各身体的能力が他の動物に比べて優位にあるわけではない。聴力一つとっても、人間が探知できるのは20ヘルツから2万ヘルツの間のみ。2万ヘルツを超える高音域では、コウモリが真っ暗闇を飛行しながら超音波を発し、その反響を聞いて障害物を避け、飛んでいる昆虫を捕まえる聴力がある。
 
人間には探知できない20ヘルツ未満の低音域では、ゾウが低い声で群れの仲間と複雑なメッセージをやりとりしている。自然には人間の可聴域を超える音にあふれかえっているのだ。つまり自然の中では私たち人類はいわば聴覚障害者のようなものと言える。
嗅覚については人類は地球上のすべての生物の中で最も鈍感な部類に入る。他の生物の大部分は、においと味を頼りに生き延びている。人類の嗅覚は方向感覚がないので、周りの誰がおならをしたかも分からないほどだ。他の動物は嗅覚や味覚(←アリ、ミミズとかそうかな?)で方向を判断するのに。
 
視覚については人類は発達した部類に属する。人間とほぼ同じ色覚と光スペクトルを持つ動物は、リスとトガリネズミ、そして一部の蝶だけとされている。しかし、人間よりも優れた色覚を持つ動物はたくさんいるのだ。その筆頭が甲殻類。シャコは12種類、それに続くエイも10種類の光受容体を持ち、「三色型色覚」(青・緑・赤)として公認されている人間の目を大きく引き離している。
 
そう考えると、人類の比類ない繁栄、つまり地球の再生不可能な資源を採掘すると同時に、同じ地球に生きる他の種を悪びれもせず根絶やしにしうる、とてつもない力が生まれたのは、脳の発達、自由に動いて器用に扱える指、高い言語能力などによって支えられたコミュニケーション能力によってだろうな、というのが私の今の結論。個別の戦闘能力はライオンやトラなどと比較にならないほど弱いのに、高いコミュニケーション能力によって、より大きな集団で生き残りを協同で図っていくことが可能になったからだ。
その最強種である人類に対して、家畜となることによって繁栄を謳歌しているブタ、牛、馬、イヌ、ネコなどの繁栄・生き残り戦略もすばらしい選択だ。おそらく人類をうまく使っているのが穀物類(米、小麦、ライ麦など)だろう。人類がいなかったら、こんなに種として繁栄することもなかったはずだ。特に、人間が勝手に品種改良した結果、野生種よりも栄養価は高く、人間が手間暇かけて育てないと育つはずもないような生存能力しか持っていない品種(「巨峰」とか「コシヒカリ」とか)が繁栄している現実。コシヒカリだって、コケヒカリと農家から言われるくらい倒れやすい品種だ。
ここまでいくと、繁栄している人類を利用して弱くても繁栄することに成功している彼らの方が賢い戦略と言えるかもしれない。

芸術作品が創られた時の作業環境を想起すること

『色の力』(ジャン=ガブリエル・コース著、CCCメディアハウス、2016−06−05)という本を読んでいたら、以下の記述があった。
 
--- quote, p.29 ----
かつては、高名な画家であろうと貧乏絵描きであろうと、ろうそくの明かりだけで絵を描いていた。つまり画家たちは、「強いオレンジ」の光の下で、色彩を創りだしていたのだ。それなのに、美術館の学芸員たちは、画家たちが創作活動にうちこんでいた時に「見ていた」光のもとで彼らの絵を展示しようとせずに、現代の習慣にしたがって、「白色光」の照明を用いている! だから美術館の絵はとても「青く」見えるのだ。初期のピカソは、ろうそくの光で絵を描いていたらしい。そうだとすれば、彼の「青の時代」(ピカソが20代初期に暗青色を基調として描いていた時期)とは、作品を展示するときの照明が間違っているだけではないのか、との疑問を抱いてもよさそうだ…..。
--- unquote ---
 
ろうそくの明かりの下で描かれた絵画をろうそくの明かりの下で展示した絵画展とか企画したら、良さそうだな~。
ろうそくの明かりを頼りに彫刻作品とかも造られていたのなら、作成現場では何本かのろうそくを立てていただろうとは思うものの、相当陰影が強く出る環境だと思われる。360度に数十本のろうそくを立てて作業していたら話は別だが。
芸術作品を鑑賞する時は、作者の作業環境とかも想起して鑑賞したいものですね。

たった10セントでこんなに人間の行動は変わる

マッキンゼー流最高の社風のつくり方』(ニール・ドシ、リンゼイ・マクレガー著、日経BP, 2016-08-01、原題Primed to Perform, How to build the highest performing cultures through the science of total motivation.)という本を読んでいて、最も驚いたのがこの箇所。ちょっと長いが引用する。
たった10セントでこんなにも人間の行動が変わってしまうのか、という話。

--- quote p.107 ---

今が1972年だとする。あなたは買い物をしようとモールへ行ったが、何を買うつもりだったのか忘れてしまった。スマートフォンなどない時代だったので、公衆電話から家にいる配偶者に電話をかけた。電話ボックスから出ようとすると、目の前で見知らぬ人がフォルダーを落とし、中に入っていた書類がモールの床に散らばった。あなたは足を止めて、その回収を手伝うだろうか?
 企業幹部にこの質問をすると、ほぼ全員が、手伝うと答える。しかし、2人の研究者が、実際にその状況を仕立てて調べたところ、手を貸したのはわずか4%だった。この実験結果を企業幹部に伝えると、彼らは大抵、被験者の学歴と生い立ちを尋ねる。そして、手を貸さなかった96%の人は基本的な価値観が劣っているのだ、と言う。冗談半分に、「その実験はニューヨークでやったのか?」と尋ねた人もいた(そうではなかった。実験はサンフランシスコとフィラデルフィアで行った)。これらの幹部の反応は、ごく当たり前のものだ。つまり彼らは、自分の直感に反するその結果を説明する答えを探したのだ。残念ながら、私たちは往々にして、間違った場所で答えを見つけようとするものだ。
 研究者らは、実験に小さな変更を加えた。電話をかけた人が偶然見つけられるように、公衆電話のお釣りの返却口に10セント硬貨を1枚、入れておいたのだ。被験者はふいに10セント、リッチになった。このことが、困っている人に手を貸す華道家に影響するのだろうか?
 大半の人と同じく、あなたは、たった10セントで行動が変わる人はいない、と思うはずだ。人間の決断は生来の性質に左右され、人助けするかしないかは、大人になるまでに決まるもので生涯変わらない、と私たちは考えがちだ。だが、それは思い込みに過ぎない。実のところ、10セント硬貨は大きな違いを生んだ。それを見つけた人の88%が、手を貸したのだ(10セントを置かない状況では、わずか4%だったのに)。
 数年後、この研究者らは、ハードルを高くして同じ実験をした。電話ボックスの中に、宛名は書いてあるが切手を貼っていない封筒を置いた。問われるのは、10セント硬貨には、見ず知らずの人のために封筒に切手を貼って投函する気にさせる力があるかどうか、と言うことだ。たかだか10セントにそんな力はないと、誰も思うだろう。だが今回も、結果は直感を裏切った。硬貨がない時、封筒を投函した人はわずか10%だったが、硬貨があると、実に76%もの人が、切手を貼って投函したのである。
 これらの実験からわかるのは、人はわずかな報酬で、シティズンシップ(市民としての責任と良識)を感じたり感じなかったりする、ということだ。これらの実験で観察された人の大半に関して、シティズンシップは、性格によってではなく、ちょっとした幸運な出来事によって喚起されたのだ。
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