一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

管理職の育成と経営者の育成

経営者の育成を最近よく考える。「管理職の育成」と「経営者の育成」では似た側面と全く異なる側面がある。似た側面としては会社というのは「個人」で戦うところではなく「組織」で戦うところなわけで、その意味でチームワークは不可欠だ。それは管理職でも経営者でも組織を動かして「事を成す」という意味では同じ。でもチームワークという言葉は経営者にはどうもしっくりこないものがあると私は感じていた。その私の違和感を日本電産永守重信氏の著書『「人を動かす人」になれ!』(三笠書房、1998年)を読んで明瞭に言語化されているのを発見して嬉しくなった。「チームワークばかり叩き込むと、決断力、指導力がにぶる」という一文で、次のようなことを言っている。
「日本の社会の中にプロの経営者を育成する仕組みが全く根付いていない。(中略)超大手企業にも管理職を育てる仕組みはあっても、経営者を育てる仕組みはない。一流の大学を出た優秀な人材に、(中略)チームワークや協調性の重要性ばかりをたたき込む。しかし、経営者に必要なのは決断力、判断力、指導力などであって、これはチームワークや協調性とは対極をなすものである。20歳代、30歳代にチームワークや協調性を身につけてしまった人間が、40歳代、50歳代になって、これまでのやり方や発想から180度転換せよと言ってみても、そうそうできるものではない」
 
次の経営者を選ぶのに管理職の中から選ぶのはダメで、経営者群の中から選ぶのが理想的と考えている。なんらかの事業責任者(PL責任を持つ)というのは管理職というよりも経営者という立場に近い。その意味で経営者予備軍を育てるためには、複数の事業を展開していて、それぞれに事業責任者をちゃんとアサインしている状態が望ましい。単一事業しかやっていない会社では事業責任者は現在の社長になってしまうので、次の経営者を育てるのも選定するのも不可能ではないにせよ難しい。
結局、経営者って孤独な存在で、意思決定をするときに一人で決めなければならないし結果責任が全部覆いかぶさってくる。この孤独感に耐えられる人にしかできない仕事だ。管理職との違いは「量的違い」ではなく「質的違い」だと考えている。
 

アップル社の「制服」

最近読んだ本にこんなことが書いてあった。

----- 引用開始 p.137 -----
アップルのとある上級管理職がこんな話をしてくれた。昇進を間近に控えていたとき、上司からもしかしたらスティーブ・ジョブズに会えるかもしれないと言われた。そうなったら、かならずユニフォームを着てこいという。彼はアップルに入社して日が浅かったので、どういう意味ですかと聞いた。そして、その答えの細かさに唖然とした。ユニフォームとは、まずデザイナーものでないジーンズ。リーバイス、ギャップ、ラングラーまでならOK。プレーンな白シャツで、カジュアル感を出すために袖をまくる。襟ボタンはいちばん上だけ外して、下にはTシャツ。腕時計は地味で機能的なもの。靴はローファーかスニーカー。革靴は避けたほうが無難で、フォーマル系は絶対にだめ。靴下は履いても履かなくてもいいが、けばけばしいものは避ける。メガネは目立たないもの。アクセサリーは付けず、コロンもなし。会議に持ち込んでいいのは、最新のマックブックだけ。「個性を感じさせるものは身に着けないことが原則」で、「スティーブが君を見たいように見られるように」するためだと言う。彼はユニフォームをスポーツバッグに入れて、車のトランクに六週間置きっぱなしにしていたが、残念ながらその機会はなかった。昇進はしたものの結局ジョブズに会えずじまいだった。
 アップルがカルトだと言われるゆえんは、わけのわからない理念のために個性を捨てさせる、こうした行為にもある。
----- 引用終わり -----
『なぜハーバードビジネススクールでは営業を教えないのか? 拒絶から始まる世界一やりがいのある仕事』(フィリップ・デルヴス・ブロートン著、関美和訳、岩瀬大輔解説、プレジデント社、2013-08-31)

良かれ悪しかれ、シリコンバレー界隈でもアップル社は「特別な存在」ではあるし、このような「制服」を暗黙のうちに強要する会社は皆無に近いと思う。しかし「カルト的」とも言える、その宗教的な情熱もアップル社の成功の大きな要因の一つだとも認めざるをえない。

カルト的なほど強い企業文化だと経営的にはマイナスよりもプラスの方が多いんだろうな、というのが私の結論。
+ 社内承認プロセスなど、会社が必要とするプロセスが少なくなる。
+ チームワークの基盤となる。
+ 採用の方針が明確になる。
+ 長期の従業員定着率が高くなる。
- 採用に時間がかかる。文化的スクリーニングがあるから。
- 短期的には新入社員の定着率低い。強烈な文化とのミスマッチ。
- 世の中の変化に合わせることを怠りがちになるので、暴走して社会問題になりかねない?

一般に採用担当者の質問内容や採用/研修プロセスで、強烈な文化を持っているかどうかが分かってくる。
Airbnbでは「余命10年でもこの会社で働きたいですか?」とすべての候補者に質問するらしいし、Zappos(靴の通販)では新人研修が終わった後に、
1. 4000ドルもらってZapposを去る、
2. Zapposで働き続ける、
という2つのオプションを与えられて選んでもらうのだそうな。
私が採用インタビューに受けた質問で最も記憶にあるものの一つが、会って最初の質問が「どうして俺はお前を採用しないといけないんだ?証明してみろ! Why do I need to hire you? Prove it!」とイギリス人のボスから挑戦的に言われたことか。

国際チームのマネジメント能力

大抵の山は一人でも登山できるので、登山という行為は自分との闘いの側面が大きい。しかし、エベレストのような山となると、頂上まで行くのは一人かもしれないけれど、それを支える様々なスタッフがいるわけで、実際は「組織」で登っている。

その意味で高山の頂上を制覇するには組織を束ねる力が致命的に重要なはずだ。全く違う技量が必要だろうな、と思う。一人でどんなところでも登れる自信や技術・体力があっても高山を制覇できるわけではない、ということだ。

「日本人は個人では弱くても組織になると強い」とか「日本企業は戦略はいまいちだが、実行力は抜群」とか、よく外国人から言われルわけだから、チョモランマやK2のような8000メートル級の制覇は日本人チームがいっぱいいるはずなのだが、実際はそうでもない。その理由は、チームはチームでも日本人だけで構成されたチームではなくて、色々な国籍の人たちが入った国際チームだからなんだろうと考えている。

国際チームのマネージにおいて日本人が得意でない理由は「日本人は単に語学が弱いから」というよりも、自分とは異質の人たちをマネージする力が弱いから、なんだろうと考えている。今後の世界を考えると、国際チームを束ねることのできる日本人がもっともっと必要だ。観光立国を目指すにも、外国人をマネージして観光案内する人が草の根的にもっともっと必要だし、人口が減少していくんだから、成長している企業の職場には外国人もどんどん増えていくだろう。そういう人たちをマネージしていかないといけない。

常識という名の偏見

「常識とは18歳までに集めた偏見のコレクションのことを言う(Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen. Einstein)」とはアインシュタインの言葉。「特定の状態でのみ当てはまる真実」を「どんな時でも当てはまる真実」と勘違いしていたら、まさに偏見/勘違いそのもの。自分の娘たちと会話してもよく自分の偏見に気付かされる。
「自分の年齢がいけばいくほど若い人と話す機会を多くつくらないと駄目だよ」と尊敬する経営者からアドバイスされたことがあるが、結局人生経験を多く積めば積むほど「特殊状況的真実」がいっぱい自分の中に折り重なっていて、それらの「常識」に思考が縛られてしまいがちになってしまう。ところが「常識のない」若い人たちと話すことによって、そのことに気付かされて、少しずつそういった「常識」(=偏見)がリセットされていく過程になる、ということだと理解している。

認識とは不要な情報を捨てること

組織内のポジションが上になればなるほど細かいことは調べたり考えたりする暇はなくなるので、物事の本質にしか興味がなくなっていくものだ。部下からの長ったらしい報告を途中でさえぎって「要するに何が問題なんだ?」とか「俺に何をして欲しいのか結論から先に言え」と言いたくなるのもそういうことだ。実際、本質だけにフォーカスするだけで随分と時間あたりの生産性が異なる。
 
認識とは不要な情報を捨てることだ。特徴選択・特徴抽出が識別・認識の本質。
例えば雑多な動物の集団の中からウサギだけを抽出したいのなら、ウサギのどの特徴を選択・抽出してウサギをウサギと認識しているのか、なるべく正確に見つける必要がある。この「特徴選択」という作業が結構頭を使う。
ウサギだったら特徴選択という作業は容易だが、数多い商品群の中でどの商品で早く新バージョンを出した方が費用対効果を最大化できるか、ということを認識しようと思うと、その「特徴選択」は何にすべきか? 売れ行きのダウンの割合なのか、顧客の商品満足度の推移なのか、新商品開発費の大きさか、など、色々と考えないといけない。
部下がちゃんとこの作業をして本質のみを報告してくれたら意思決定が容易になるが、そうでなく逐一報告してくるとなると時間がかかるし、こちらの思考作業が格段に増える。
でも考えて意思決定していくのが上司の仕事である以上、有能でない部下も上手に使って育てていくしかない。

企業の新陳代謝力とベンチャー企業の出口戦略

「誰に向かって何を売るビジネスを営むのかという事業の「立地」や、売ると決めたものを売ると決めた相手にデリバリーするまでのプロセス(これを私は事業の「構え」と呼んでいます)は、思い立ったからといって、簡単に変えられるものではありません。だから、戦略性が高いのです。」(『どうする? 日本企業』三品和広著、東洋経済新報社、2011−08−18、p.25)
 
確かに誰に何を売る、というのは比較的容易に変えられるが、その売り方を変えるというのは変更が困難なため戦略性が高い。JTBのように全国に営業拠点を築いて営業力で勝負するという売り方が「明日からネット販売主体にします」とはできない。でもB2C主体に売っていましたが、今後はB2B顧客だけを相手にしていきます、と顧客を変更することだったらJTBには実行可能なはずだ。
アスクルのように顧客への直接配送を主体にしている会社が「アスクルストアという物理店を全国に展開します」と意思決定しても成功がおぼつかないだろう。
しかしその「事業の構え」も「事業の立地」(=市場や顧客)も、どちらもいつの日か陳腐化する。そうなってしまうとどれだけ製品を改良しても、オペレーションを強化しても歯止めがかからないことになる。
となると、企業の長期的繁栄の鍵は「新陳代謝力」ということに尽きる。
ネットワーク機器のシスコシステムズが新興企業の買収ばかりやって新陳代謝しているように、既存の日本の大手企業もベンチャー企業をどんどん買収していけばいいのに、と思う。でも大手企業の買収担当者に言わせれば、「魅力的なベンチャー企業がないんだよね」とよく言ってくる。
ベンチャーキャピタル側に言わせると「米国ではIPOもあれば大企業に売却というexitもある。しかし日本では事実上IPO以外のexit戦略がないのが問題」とも言ってくる。
その意味では、ニワトリータマゴの問題なのか。となると、どちらかがアクションをとるしかない。

早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め:ダイバーシティ論

アフリカの諺で「早く行きたければ一人で進め。遠くへ行きたければみんなで進め」というのがあるらしい。
登山でも同様で、単独行の方が自分のペースで行けるから早く目的地に着ける。団体行動だとボーイスカウトの行進みたいに一番遅い人のペースに合わせるからどうしてもスピードは落ちる。でも装備の種類や救急用品など色々な備えができるので人数が多いと遠くまで行ける。
集団で進むにしても、その集団内で多様性があるほうが遠くまで行ける。山登りで、みんな同じ装備を背負っていくのは意味がそんなになくて、それだと三角巾や消毒薬みたいな基本装備はみんな持っているけど、ヤマビル対策のスプレーとかアナフィキラシーショック対策のエピペンをさすがに持って山登りする人は少ない。けれどグループ登山だとそういうことも可能になってくる。
多様性(ダイバーシティ)が無い方が早く行ける理由も理解できる。同質だから、山登りだと同じような体力を持っている男性ばっかりとかだとペースが同じだから、集団でも目的地に早く着ける可能性が高い。それがダイバーシティがあると、色々と大変。体力ある人、無い人、荷物が多い人、少ない人、休みを頻繁に取りたい人、そうでない人、など。でも、予期せぬ事態に直面した時に対処策というかオプションが多くなる。登山で言ったら、鼻がよく効く人がいたら、獣臭(けものしゅう)をいち早く感じて熊が近くにいることをみんなに警告できたりとか、キノコや山菜に詳しい人がメンバーにいたら、遭難時にも生き残れる可能性が高くなる、とか。

人生も同様。一人で生きているよりもパートナーとか家族とかいると、自分一人では行けないところへも、振り返ってみると行けている。その家族の中でのダイバーシティがあるから家庭のマネジメントは大変だ。でも遠くへ行ける。