一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

企業は成長し続けなければならない存在

この数年、同族企業の経営者と会う機会が多いのだが、「成長願望」が無くて「現状維持」というか「とりあえず先祖代々続いたこの会社を存続させることが私の使命」と割り切っている経営者が散見される。もちろん倒産させるわけにはいかないので存続させようとするのは最優先で大事なのだが、現状維持しようと思って現状維持できるわけではなく、成長しようと思って必死にがんばっても結果的に現状維持という結果になっているのが世の常であることを分かっていない。
以前、うちの娘が「金メダルは無理だと思うけど、銀メダルか銅メダルを取りたいなぁ」と言ってきた時に、私が「銀メダルや銅メダルを取っている人は、間違いなくみんな金メダルを取るつもりで何年も苦しい練習をしてきたわけで、結果的に銀や銅になっているだけの話。最初から銀や銅を狙っている選手はそもそもメダルなんか取れないよ」と言ったことがある。話としては同じことだ。

私は企業の成長には3つの目的があると考えている。

1. 投資家のニーズを満たすため。
要するに株価を上げ続けないといけない宿命を企業は背負っている場合がほとんど。同族企業の場合、株主=経営陣になっている場合が多いので、株主(親族だらけだが)が「成長しようとしてリスキーなことをしなくてもいいよ」と思っていると、この目的は当てはまらないこともありうる。

2. 顧客のニーズを満たすと同時に規模の拡大を通じて競争力を増すため。
規模の経済(economies of scale)が働く業界(たいていの業界はそうだが)では大きくなることがコスト競争力を増し、結果的に自社の優位性につながってくる。同族企業でもこれは当てはまるはず。規模の経済が全く働かない業界というのも想像が難しいが、絵描きとかいった芸術系はそうかな?

3. 社員にさらなる成長の実感と機会を与えるため。
成長していない事業にたずさわる人は、ビジネスパーソンとしての成長の機会が全くないか、というとそうでもないのだが、やはりビジネスパーソンはその事業の成長とともに成長する、という側面は否定できない。この点を考えていない経営者は結構多い。現状維持であってもビジネスパーソンとして成長はするものの、「3年で事業規模を2倍にしてみろ!」と発破をかけられた事業責任者は成長の速度も違うだろう。
急速に縮小していく市場の中で、それでもなんとかして利益を出そうとする事業責任者も相当苦しむだけに成長するのかもしれないが。写真フィルム事業担当者とかデジカメ事業責任者とか。

経営者は「日本の人口が減るんだから市場が小さくなって当たり前だし、うちの売上の小さくなったって当たり前だよね」なんて気軽に言わない欲しいもんだ。オートバイの市場は日本では1982年をピークに今では6分の1くらいに縮小しているが、ハーレーダビッドソンジャパンの売上は70年代に進出してきてからずっと右肩上がりだったりする。意志あるところに道あり。成長し続けることを目指してほしい。

死んだ細胞、生きた細胞、エネルギー効率と生き残り戦略

山で見る木の大部分は死んだ細胞の塊。幹の直径が1メートルを超えるような大木は、98パーセントが死んだ細胞だ。我々が家の柱に使ったりする木材(木部)は死んだ細胞の塊ということ。屋久島の縄文杉などにいたっては99.9%くらい死んだ細胞なのかもしれない。
木の死んだ細胞の部分を切り取って土に差しても根は発生しないわけで、若葉のついた細い枝先は生きた細胞なので、切り口から根が出てくる。
木の生き残り戦略としては、成長していくにつれて生きている細胞の比率を下げて(すなわち木部の割合を高めて)、エネルギー効率を高めていこうとする戦略。つまり葉でエネルギーを吸収したものを生きている細胞が消費するわけだから、生きている細胞が少なくなればなるほど効率が良い、というわけだ。

一方、人間は髪の毛や皮膚の一部が死んだ細胞だが、逆に98パーセント以上が生きた細胞。私たちが生きているということは、新しい活力ある細胞に日々置き換え続けているということ。これは木に比べてめっちゃエネルギー効率は悪い。
我々の体に葉っぱがたくさん生えて光合成をしながら生きていくにしても、エネルギーが足りなすぎる。脳みたいに体重の2%の重量しかなくてもエネルギー消費量は全体の18%も食っている。それでもエネルギー効率を犠牲にしてでも知的能力を強化する方向に進んだのが人類の生き残り戦略。おかげで母親の産道を通れるギリギリのサイズまで脳の容積を増やして生まれる結果、あまりのバランスの悪さゆえに生後1年も歩けないときたもんだ。短期的生き残り能力を犠牲にして長期的生き残り能力の増強を図っている、とも言える。

会社の経営陣に若手を入れるというのは「生きた細胞」の比率を高める、ということなのか? トヨタみたいな大企業は死んだ細胞の比率が高まるが(←かなり失礼な言い方だがw)、リソースの効率的な運用ができるようなオペレーションが確立しているので、エネルギー効率は高く、それはそれなりに生き残り戦略としてはありなのか?・・・などと考えさせられました。

渋柿と人間性

渋柿が干すだけで甘くなるのは、渋味の元であるカキタンニンが、干すことによって水溶性から不溶性に変化するため、渋味が無くなるからだといわれる。
干し柿の甘みは砂糖の1.5倍あると言われるほど甘いもの。そもそも干される前から糖分を渋柿は持っているのだが、強い渋味の陰で感じられないだけなのだ。
人間も歳をとって、「若い頃はとっても怖い人だったのに、年取ったら随分と優しい人になった」なんて言われることがあるけど、本当は最初から優しさをすごく持った人だったんだけど、例えば他者への厳しさとかが歳をとって薄れてきたために、他人からみると「優しい人になった」と見えるだけなのかもしれない。

旧日本海軍のリンチと市場原理


坂井三郎といえば、ゼロ戦のエースとして国際的にも有名なパイロット(かつ戦後は国際的ベストセラー作家)であるが、彼の書いた『続・大空のサムライ』を読んでいて、言葉の端々に彼は日本海軍に畏敬の念を持っていることは分かるのに、以下の記述はかなり手厳しい。

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『続・大空のサムライ』(坂井三郎著、光人社NF文庫、2003-05-14)
p.167-168
 三年、四年と鍛え上げた古参兵にまじって行う十五センチ砲の訓練は、身体的にも精神的にもまだ未熟な十六歳の少年兵には、それは過酷なもので、そのつらさに耐えていくだけでも精いっぱいの上に、新兵には、朝五時半に起きてから夜のハンモックにつくまで、よくもこれほどの労働があるものだとおもわれるほどのつらい仕事が押しつけられる。
 その上、われわれには、四六時中まことに意地のわるい古参兵の目が光り、ちょっとの失敗でもすればもちろんのこと、新兵仲間の一人がまずいことでもしようものなら、それは新兵全員の連帯責任となって制裁を受けることになる。
 その制裁も、鉄拳によるびんたなどは日常茶飯事のことであり、その上に軍艦では昔からストッパーという直径五センチ、長さ約八十センチほどのロープでつくった責(せめ)道具があり、これを海水に浸すと棒のように硬直する。
 このストッパーのほかに、木でつくった精神棒(野球のバットといったもの)で、古参兵が若い兵隊のお尻をそれこそ力いっぱいなぐるのである。それも一発や二発ですまない。
 古参兵といっても二十歳そこそこの若者だけに、殴る方が興奮してしまって、めちゃめちゃに殴る。
 私の殴られた最高記録は、帰還時刻がわずか数分おくれたときであるが、立ったままで二十数発やられてついに倒れてしまい、立てなくなった私は、今度はロープでビームから吊るされてまた殴られ、気絶するまで四十七発を数えた。気がついてみると、海水を頭から浴びせられて、ぐしょぬれになって甲板の上にのびていた。
 この制裁は、夜の巡検後、薄暗い各分隊の受け持ち甲板で行われる古参兵の、一日の私たちの勤務に対する講評の後で、かならずといってよいくらいはじまる。なかにはこの制裁を唯一の楽しみにしていると思われる意地の悪い古参兵もいた。
 たまに五日もバッタのない日が続くと、私たち新兵は、かえって薄気味悪く感じたもので、風呂に入っていても新兵であることの証拠は、お尻を見れば一目でそれとわかった。新兵のお尻は、いつも紫色に皮下出血をおこしていた。
 兵隊同士の制裁は、副長はじめ分隊長、分隊士から禁止されているとのことであったが、そんなことはまったくの空念仏で、士官たちはまったくよその社会のことのように知らぬふりをしていた。
 それどころか、夜間に行われる、栄光ある日本海軍のこの地獄沙汰を、まったく知らなかった士官が大半ではないかと私は思った。
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あの坂井三郎が書いているんだから本当なのだろうとは思うだけに、時代が違うとはいえ、「こんな軍隊でよく戦ったものだな」と思わざるをえない。同じ時代の他国の軍隊でも似たようなことはあったのかもしれないが、想像するに志願兵制ではなく徴兵制である場合にこのようなリンチがまかり通りやすい、とは言えそうな気がする。
志願兵制だと、いわば「労働市場の一部」となるので、市場原理が働く余地があり、その(精神的・経済的)報酬のわりに過酷すぎる場合は「退出」、すなわち除隊してしまうであろうし、除隊した人からその評判は広まってしまうであろう。

インタビューの作法

先日、仕事の関係でインタビューされていたんだが、相手の出来が悪すぎて途中で辞めたくなった。何が問題かというと、第一に、インタビューガイドらしきものを作ってインタビューをするのはいいのだが、あまりにそれに固執していて、ちょっとでも外れることを一切しない。こちらも相手の背後の読者が興味を持ちそうな、新しい仮説とか話してあげているのに、そこを深堀りしようともせずに、さっさと次の質問へ移っていく。
第二に、本当は分かっていないくせに「分かったふり」をしている。後で調べれば何とかなるような専門用語/業界用語みたいなものだったら分かるが、いくつかの論理が省略されて結論を述べているのに、「そこをもっと詳細に教えてください」みたいなことを尋ねてこない。つまり私の言っていることを理解していない。
第三に、「~についてはどんなお考えをお持ちですか?」という具合に、質問が漠然としすぎる傾向があり、どんな答えでも言えてしまうものが多い。
インタビューされていて、知的な緊張感みたいなものが皆無なんですよね。こんなインタビュー記事を読まされる読者も迷惑な話だなぁ、と思います。ちなみに狭い業界誌向けで、ウェブでは読めないそうです。

怪我しやすい選手とそうでない選手の違い

スポーツ選手でも怪我しがちな選手とイチローみたいにほとんど「怪我で欠場」というのが無い選手もいる。この違いには、もちろん体の柔らかさとか普段のトレーニングとかいう要因があるのは分かる。
しかし最大の要因は、実力を100%近く発揮して試合に臨んでいる人と、80%の実力とかで試合に臨んでいる人の違いかな、と考えている。要するに「余裕度」だ。高校野球の球児みたいに100%出しきって「毎試合完全燃焼!」状態でプロ野球で試合をやったら、間違いなく怪我をする。
本当のプロフェッショナルとは、自分に求められている水準を最低限の労力でギリギリでクリアする人たちなんだろうと思う。一回だけの勝負なら100%出しきるのも分かるが、世の中のプロフェッショナルは長期戦を戦っているのであり、長期間、継続的に結果を出し続けないといけないのだ。
その意味では、毎回難しい手術を長時間かけて成功している外科医とかでも、本当の100%の実力はそれをはるかに凌駕する水準で持っているはずだし、「和食の鉄人」とかの料理人でも同様なはずだ。彼らは通常、全体としてみると実力の7、8割で戦っているわけだから。
ビジネスでも「お前の持っている実力を100%出してやってみろ!」とか言う上司は、怪我する部下、つまり「燃え尽き症候群」とかの予備軍を作っていることを自覚しないといけないということかもしれない。
でもプロはプロなりに「本当の実力」を上げないと「余裕度」が上がらないので普段の努力がとんでもないんだろうとは思います。

今我々が生きていくのに必要な「国語力」とは

20代の社員と話していて感じたのだが、ビジネス文書を書かせると、国語力が圧倒的に足りない。それは学校教育で教わる国語力なのではなく、コミュニケーションのツールとしての国語力が圧倒的に足りないことに気付く。
うちの娘たちの国語の宿題を見ていて私が感じるのだが、日本の学校で習う/育てようとしている「国語力」は:
1. 書き手が何を言おうとしているのかの推測ができるような読解力。書き手の言わんとしていることを100字以内などにまとめる能力。
2. 読んだ内容について思ったり感じたことを書かせる、(感受性を磨いて?)感想文を書く能力。
などが主体になっている。
一方、世の中に出て必要とされる国語力は:
1. 論理的に物事を考えて、それを相手に理解してもらい説得するための思考力と文章構成力・対話力。
2. 複雑な事象を、誤解の余地がないように明晰な文章で表現する国語力。
3. (契約書など)構造的・論理的に書かれた文章をちゃんと理解して、その足りない部分などを考えることができる国語力。
4. 相手が必ずしも100%表現することができない事柄を、想像力などを使って表現しがたいものを言語化して思考を明晰化(explicit)する国語力。

そういう意味で、学校の国語の先生に有能なビジネスマンが教えに行ってもいいんだよなぁ、などと考えてしまった。
それでも村上春樹とかにビジネス文書を書かせたら相当明晰な誤解の余地ない文章を書いてくれそうな気がする。要するに言葉の意味空間に対する感性が鋭いというか解像度が高いというんでしょうかね。作家という職業は文章を分析的に読み書きすることに慣れているからじゃないかなぁ、なんて考えている。