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一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

真実の前での平等

田村耕太郎さんの書いた『君は、世界を迎え撃つ準備ができているか?』という本を読んでいたら、なぜ東アジアには自然科学系のノーベル賞受賞者が(人口の割には)少ない理由に関する議論があった。

誰しも思いつくのは、英語の問題があるし、研究開発資金にも欧米とは大きな差がある、という理由は今も有効ではあるだろう。しかし、米国の大学教授たちが問うているのは、儒教的倫理観だ。つまり、

「日本を初め東アジアの儒教文化の中では、先輩研究者の研究の欠陥を突いたりケチをつけたりといったことができないのではないか? 先輩や師匠の研究成果に面と向かってチャレンジできないから、イノベーションが起きにくいのではないか?」(p.153)

世界で初めて血清療法を発見した北里柴三郎の場合、ドイツ留学中、先輩の研究のミスを指摘しあぐねていたが、師匠である細菌学の父ロベルト・コッホから「科学に恩師も何もない。私情より論理だ」と諭され、これが後の彼の研究を大きく前進させた。

先輩や師匠に対して批判的なことを言いにくいのは、敬老思想が影響しているのではないかと思う。敬老思想そのものは、日本、中国、韓国など広く儒教文化圏で見られるものだが、それ自体は特に悪いとは思わない。しかし、それが研究者にとって真実を発見するための障害になっているのだとしたら、ロベルト・コッホが北里柴三郎に教え諭したのと同様に、師匠や先輩研究者が後輩研究者に対して「真実の前には万人は平等である」という価値観を教えていかなければならないのだろう。長く研究しているから偉いわけでもなく、先に研究しているから偉いわけでもない。真実を発見することが偉いのだ、そのためには万人は平等であり、対等である、という当たり前のことを当たり前のように各研究者が持っていなくてはならない。

社会科学の知的巨人と言えば、マルクスと並んでドイツのマックス・ヴェーバーがいるが、彼は「東アジアの儒教文化圏は、カルヴァンの予定説に代表されるプロテスタンティズムの倫理観が欠如しているため、資本主義が育たない」という趣旨のことを書き遺している。しかし、その後の歴史は彼がこの部分においては間違っていたことを証明している。故山本七平によれば、日本でも江戸時代に石田梅岩の石門心学が広がり、庶民の間に質素倹約は美徳とする文化が普及した。その結果、資本主義の精神が日本にも根付くことになり、江戸時代には資本の蓄積が始まり、明治維新とともに近代資本主義が本格的な夜明けを日本は迎えた。ヴェーバーが言うところのプロテスタンティズムが無くても立派に資本主義は根付くことを証明した。

同じように、儒教文化圏であっても、自然科学のノーベル賞をいっぱい取れることを証明すれば、理論が後からついてきて、うまく説明できるようになると思う。