一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

答えを覚える教育 vs. 答えを自分で考える教育

 大学を出て晴れて社会人になった時に「学生だった時と全然違うなぁ」と私が思ったのは「実社会では答えが一つではない」ということであった。学校教育では典型的には問題に対する答えは一つであり、それ以外は間違いとされるもの。小学校、中学校、高校とひたすら「答えを覚える教育」を受けてきた。大学でも試験の大半は「答えを覚える」ことさえやっておけば単位は取れていた。数学ですら、私にとっては暗記科目で、解法のパターンを暗記し、問題を見たら、解法が思いつく、というレベルになれば数学は暗記科目だ。

 ところが実社会に出てみると、後知恵的に「あそこであういうやり方をとっていたら、ベストだったなぁ」と思うような選択肢がある場合もあるが、「他のオプションに比べてベターと私が思う」オプションをとって実行しているだけで、多くの場合、後知恵的にもそのオプションが本当に他のものに比べて良かったのかどうか確信はない。つまり、学校教育と違って「答えが一つだけでないどころか、結果が出た後であっても、いくつもある答えの優劣すら判断できない可能性が高い」という状態が現実なのだ。

 学校教育は、高度な文明社会で生き延びて行くための「社会化」プロセスであり、現実社会の事前演習的側面がある。つまり現実社会のシミュレーションを学校である程度やっておき、卒業後にスムースに現実社会と調和しながらきちんと生きて行けるようにすることを手伝ってくれるものだと思う。
 ところが現実社会は答えがいくつもある、となると先生は生徒に「答えを覚える」教育だけやるのでは駄目になってきていて、別のやり方をとらざるをえない。ビジネスの現場では当然答えはいくつもあり、その中で意思決定して進めていっているわけだが、ではどうやっているのだろうか?
 マネジャーが経験などに基づいてベターな答えを分かっている場合もあろう。分からない場合は、マネジャーはファシリテーターになって、ベターな答えを部下と一緒に議論しながら考えていくのが通常のやり方だろう。
 学校教育も同様にならないといけない。先生は「教える」立場ではなく、せいぜいアドバイザーであり、生徒が考えるのを一緒にファシリテーターとなって参加する、という形態にならざるをえない。生徒が自分で考え、お互いに議論してベターな答えを探し出していくプロセスを支援するのが先生の役目ということだ。もちろん、従来からの「答えを覚える教育」も必要だとは思うが、相対的にその重要性は少なくなってきていて、「自分で考えて自分の答え」を見つける能力の重要性が高まっている。二者択一ではなく、車の両輪みたいな位置づけだと考えるべきだ。思考能力は基盤となる基礎知識があるからその能力を十分に発揮できる側面があるからだ。
  大学の入学資格を得るための統一国家試験、バカロレアの試験問題を見ると、「これを日本の高校三年生が受けてどのくらい書けるんだろう?」と思うような問題が多い。哲学の問題では
(3つのうち好きな1問を選んで答えよ)
文系用
-Que gagne-t-on en travaillant?
(働くことで人間は何を得るか?)
-Toute croyance est-elle contraire à la raison?
(信心は道理とは反対のものであるか?)
-Commentaire: Spinoza «Traité théologico-politique»
スピノザの『神学・政治論』についてコメントせよ)
見て分かる通り、知識と思考能力の両方が問われている。
 
 デンマークではteachという概念を学校から追放し、「教える教育」から「考える教育」へ1990年代から20年かけて変えてきた。教育方法が変わっても結果が出るまでは何十年もかかるので、その結果を現時点で評価するのは難しい。デンマークの政府もOECDによるPISA(Programme for International Student Assessment)調査の国際ランキングがさがったりしたので、迷いがあるようで、何らかの揺れ戻しが起きている。それでもその大胆な改革をやれる国がうらやましい。
 それに比べて、日本の文部科学省が行っている教育改革は手ぬるい。漸進主義というか、ちょっとずつしか進まない。日本で教育を受けさせてやりたい、と他国の国民から見られて、日本への留学生がドッと来るような教育制度にならないものだろうか。