一経営者の四方山話

個人的に関心を持っているイシューについて考えたことを書いています。経営、経済、文化、学問など多岐に渡ります。

失敗力とリスク耐性

「自分がやったことは大体失敗してきた。しかし、ときにはびっくりするくらいうまく行くことがある。それを味わうと何回失敗しても怖くない」(大村智、2015年ノーベル医学・生理学受賞)という言葉を知ると、要するに失敗に対する感性を低くして、いわば「失敗力」を高めることが大切だな、と思う。
事をなすには、終始楽観的であることが大切なんだけど、悲観的に準備しておくこともリスク管理という意味では必要。この悲観と楽観のバランスをいかにして適切に保つか、ということが難しい。
私の場合、もともと超楽観的な人間だけに、悲観的に準備するのが性に合わなかった。でも悲観的に準備することが仕事の一部になってしまったので、強制的に悲観的に考えて手を打っておく必要が生じ、その結果、両方のバランスを何とかとれるようになったけれど、それでも悲観的に考えるのは結構意識してやらないと忘れてしまいがち。
今までの自分の人生を振り返ると、客観的には「リスクを取りすぎ」だと思うんだけど、結果的にはOKという人生。こういう人についていくには、それなりにリスク耐性がないといけないが、自分が取っているリスクを教えてあげないのも、リスク耐性の少ない人への思いやりなのかもしれない。

読書というメンタルトレーニング

米国の小学校でボランティアのゲストスピーカーとして「日本の小学校」とか「日本の政治制度」といったテーマで話したりしていたことがあるのだが、米国の学校ってやたらと読書をさせる。国語の授業って要するに読書の授業なんだよね。私が見た中学の国語の授業のシラバスを見ると、『華麗なるギャツビー』とか『白鯨』とか1年で20冊くらい読まされる感じになっていた。
うちの娘達、浦安市で公立の小学校に行っているが、さすがに夏休みの時は読書の宿題があるが、普通の授業で国語の教科書を読んでくる宿題はあるものの、それ以外に読書の宿題が出たことがない。1週間に1時間読書タイムというのがあるようだが、それだけ。
こんなのでいいのか?

本をまったく読まないビジネスマン(年間5冊以下とか)は信用ならないので(←私の偏見です)、採用インタビューで最近6か月で読んだ本を3冊くらいあげさせて考えたことを聞いたりしている。その時によく思うのだが、子供の頃に本をよく読んでいない人が大人になったとたん、読書家になる、というのはほとんどない。子供の頃から読書の習慣/トレーニングをしておかないといけない、ということなんだろう。

読書は頭にかかる負荷がテレビなどに比べて重いので、それなりの集中力、想像力、思考力が必要とされる作業だ。
幼児虐待等を受けると学校の成績の中でも特に算数の成績が低くなる傾向にあるという結論の論文を読んだことがある。他の科目に比べて算数の問題を解くには一貫した集中力、情緒の安定がより必要だからなのではないか、というのがその人の仮説だったのだが、読書の能力もそうなのかもしれない。ちなみに、ある一定量までの夫婦喧嘩の頻度と子供の成績とは相関関係が発見されなかったらしく、夫婦喧嘩はconflict resolutionやstress managementのよいサンプルを子供に見せていることも考えられるのだそうな。w ただしあまりに頻繁だと成績との相関関係が出てくるらしいですが。これは想像がつく。

たぶん現代人は暇つぶし的にスマホでブログとかニュースとかを読んでいるので、10年前よりも読んでいる「活字の量」という意味では増えているのかもしれないが、それが読書というトレーニングと同等の効果をもたらしているのかどうかに興味がある。本に比べて、スマホで読むような文章は一つ一つが短いので、長時間の集中力を必要とせず、知的トレーニングとしての効果は薄いのではないか、というのが私の仮説なのだが。

自分自身のバイアスを自覚することが大切

社会的にハンディキャップを背負っている人たち(深刻な病や身障者を抱える家庭、極度な貧困、シングルマザーなど)に対する社会保障の充実に最も反対する人たちって、そういうハンディキャップを経験しながらも懸命に努力して、いわば立派と言える人生を成し遂げてきた人たちだったりする。
「私だって、あなた方と同じ悲惨な環境だったのよ! それでも必死にがんばってここまでやってきたの。甘えるんじゃないわよ」と。確かにそれ自体は美談なのではあるが、社会保障は「平凡な努力でも生きていける環境作りや支援」であって、「非凡な努力を求める」ことではないと思う。
要するに、人は自分ができたことをできない人を過小評価する傾向にあり、自分ができないことをできる人を過大評価する傾向にある、ということなんだろう。会社の人事考課時に部下とかの評価の時にこういうバイアスがあることを自覚することが必要だ。

会社で部下に対して「勉強不足だよ」とか「だらしないなぁ」とは思うのだが、私がやってきた(非凡な)努力をその人たちに対して「やって当然のように期待」するのも間違いだよなぁ、と考えてしまった。

 

マーケティング職の候補者を面接して思ったこと

私が事業のマーケティング戦略の概要を説明したら、「事前にずいぶんと論理的に考えているんですね。でも考えている仮説が正しいとは限らないので、そこまで考えずに実際の変化する状況や現実に直面した直感を元にしてアクションをしていったほうがいいんじゃないですか?」と言ってきた。この人の言うことは分かるのだが、非常に違和感を感じて、その違和感の原因を考えてみた。

もちろん私が持っている仮説は仮説でしかない。現実が仮説を裏切ることもあるだろう。しかし、失敗した時に、ロジカルに詳細に考え抜いたことが活きてくると考えている。なぜなら、失敗を検証することができるからだ。直感に頼ったアクションは、あてずっぽう(a shot in the dark)と同じ。これでは、失敗した時に検証のしようがない。「運がなかったねぇ~」という感想しかないだろう。
この時に重要なのは仮説の精度や正確さということになる。つまり、自分の中で確信が持てるまで考えに考え抜くこと。思考の体力勝負だ。
そしてその事業を推進するチーム内で確信が強ければ強いほど、成功の可能性は高まる。関係者が確信を持って事業を推進するから、当然事業に勢いが生まれるし、プレイヤーのモチベーションも高い。その空気は周りに感染していく。だから、仮説が多少間違っていてもそれを帳消しにするほどの結果になってしまう。これが実は一番大きい。

だから「ビジネスって博打だよね」という人って信用できない。ビジネスには不確実性はつきものなんだけど、考え抜けば「絶対にこうすればこうなって成功できるはずだ」と本人は確信を持って事業をやれるはずなのだ。考え抜いている本人にしてみれば博打というほど不確かなものではないつもりなのだ。だからそんな台詞を軽々しく言えるわけがない。

テレビ番組のネイティブ広告考

テレビ番組のネイティブ広告(native advertisement)の手法を今朝の通勤時に電車の中で考えた。ネイティブ広告とは、例えばtwitterfacebookがやっているように、コンテンツ(文章や画像や動画など)と同じ文脈で表示される広告で、一見したところすぐに広告だとわからなく、それなりにコンテンツ上の価値があるものも多い。

昔からProduct placementというマーケティング手法があって、たとえばBMWが007シリーズのスポンサーの一人になって、ジェームズ・ボンドBMWの改造車をかっこよく使うシーンを作ってもらい、映画を見た人のBMWを購入する意欲を高める、というような手法はあったが、あれもネイティブ広告と言えなくもない。

テレビ番組の中にネイティブ広告を埋め込もうと思ったら、ドラマの中で出演者が突然「そういえば、こんな時にこのアプリが便利なんだよねぇ~」とか言い出して、(わざとらしいが)そのアプリが軽く(?)宣伝される場面を挿入しておく、とか。
あるいは、視聴者がテレビ番組の録画でCMを自動であれ手動であれスキップしてしまうことの対策として、テレビ局がテレビ番組内でPicture in pictureのように、画面の片隅で小さくCMを流し続けることをやるかもしれない。視聴者にはうっとおしいんだけど、録画で番組を見る視聴者に、スポンサー様のCMを何としてでも見せるにはこんな手段しかないんじゃなかろうか?
YouTubeのように最初に数秒広告を強制的に見せて、それからCMをスキップ可能にする、という手法も「もがいているなぁ」という感じがする。

いづれにせよ、動画上でネイティブ広告って「うっとおしい感」がつきまとう。twitter/facebook上のネイティブ広告が、まだ一応受け入れられているのは基本静止画だからだと思っている。自分で視聴するものは自分でコントロールしたいというcontrollabilityというイシューだ。ネイティブ広告を無理やり見せられても、twitter/facebookだと、自分でそのネイティブ広告をほとんど読まずに次へ進むことができる。一方、動画の中にネイティブ広告を入れられると自分でコントロールできないから、「うっとおしい感」が生じてしまうのだ。

テレビ業界はCMスキップに対する対策がないまま進むと、スポンサー離れが進んで、そのまま安楽死への道しかなくなる。したがって、今後生き残っていこうと思うのならば、
1. 視聴者に受け入れられる、何らかのネイティブ広告の手法を考案する
2. 自分のプラットフォームを離れて、例えばhuluなどへの有料でのコンテンツ配信とか、ビジネスモデルを全く変えていく、
というようなことをやっていかないといけないだろうな。今はひたすら安楽死への道を走っているように思える。

文化の発達とボキャブラリー

その国の特定の文化が発達しているかどうかは語彙(vocaburary)の充実度合いで判定できると思う。
英語だと豚と豚肉、牛と牛肉、など肉関係は独自の単語になっている。pig→pork、ox/cow→beefというように。日本語みたいにpig meat(豚肉)というような言い方ではない。肉食文化だと肉関係のボキャブラリーが発達するわけだ。
イヌイット(前はエスキモーと言われていたが)は、雪の状態を表す語彙が日本語の数十倍豊富らしいが、それは当然だろう。彼らの文化と密接に関係あるわけだから。

同じ物質で温度が違うだけなのに、水とお湯という全く別の語を用意しているのが、水の豊富な日本の文化を感じる。英語みたいに「熱い水 hot water」とは言わない。

先日知った英単語でdefenestrationという単語があって、「人を窓から投げ捨てる行為」を意味するが、こんなことを一語で言う利点を日本人には理解しがたいが、おそらく英語圏では一語で言うことが便利だと思えるほど、(少なくともかつては)よく行われた、ということなんだろうか。アングロサクソンの文化と密接な関係があるのだろうか。(笑)

家族で登山騒動記、学んだ教訓

5月3日に小学生の娘2人を連れて、蓼科山(2531m)に登ってきた。登りの距離で言うと4kmくらいだが、登山口から頂上までの高低差で言うと800メートル程度あるので、一日で昇り降りするには結構きつい。
今回の登山は、自分としては色々と反省が多い山登りだった。福島の原発事故なみに色々と誤算の連続であったと言えるかもしれない。

1. 八王子での渋滞で2時間ロス
朝5時前に自宅の千葉県浦安市を出たので、道路距離で230km(うち、高速道路が215km)くらいしか離れていないので、余裕で朝8時前に着くだろうと思っていたら、こんな早朝に八王子界隈が事故で大渋滞。そこの脱出に2時間かかり、その結果、ますます周りも通常のゴールデンウィークの渋滞が始まる時間帯になってしまい、最終的には登山口である女神茶屋口から登山をし始めたのが午前11時から、ということに。
考えてみれば、通常の登り方で登り3時間、同じルートで戻ったら2時間半。しかし休憩時間を考えると、現実的には往復7時間は考えないといけないだろう。となると、11時から登り始めたら、戻ってきたら、夜6時過ぎになる。真っ暗ではないものの、暗い山道を歩くのは危険だ。だから、出発する時点で出発を諦めて登山計画を今回は諦める、というのがおそらくは最も順当な意思決定というものだろう。
しかし、我々は諦めずに登り始めた。

2. 登りに4時間以上かかった
登山地図を見ると、登りに(休憩なしで)3時間かかることになっている。私の通常のペースは、登山地図で3時間というコースは、だいたい実際は2時間40分くらいで登る。しかし今回は子連れで、子供たちも休憩をとる頻度が多い。したがって合計4時間以上かかって頂上に到達した。
頂上に至る最後の30分くらいは、巨大な岩がゴロゴロしている、かなり急な登坂をする。こういう場所を登るのも怖いが、さらに下を見ながら下山する場合は相当な恐怖感がある。それが次の失敗につながった。

3. 帰りのコースを当初計画とは変更して別ルートで戻ることにした。
あまりに登りの最後の急坂がすごかったので、子供たちの希望もあり、別のルートで戻ることにした。頂上から天祥寺原へ降りて行き、滝ノ湯川沿いに戻ってくる登山道だ。しかし、これが大誤算。登りのルートはほとんど雪も残っておらず、持ってきたアイゼン(靴に付ける取り外しのできるスパイクみたいなもの)を使う機会はなかったが、山のこちら側は雪が完全に残っており、通常の数倍の時間がかかって下山することに。
アイゼンを使っても、スキー場で言ったら、上級コース(黒線のコース)みたいなところで、かなり急斜面の雪坂を降りて行くんだから、アイゼンがあっても相当すべって転ぶ。転ぶとなかなか止まらない。我々の前を60代のおじさんグループが歩いていたが、すべって頭を下に滑っていって、止まらずに数十メートル下へすべって肩を木にぶつけて止まった。幸い怪我はなかったようだったが。
さらに頂上から天祥寺原へ降りて行く川沿いの道が相当な「ガレ場(大きな岩がゴロゴロしている)」で、これに雪がかぶっているものだから、歩きにくいことおびただしい。異様に時間がかかり、疲労度も増す。結果、天祥寺原に着いた時点でヘッドライトを使わないとどうしようもないほど暗くなってしまった。この時点で午後6時半。しかも他に登山している人が誰もこの登山道にはいない。雪の上に足跡がついているので、何人かはこの数日、ここを歩いた形跡があることはあるのだが。この雪に熊の足跡があったらどんな思いがするのだろう、などと想像してしまった。

4. 登山道が事実上消えている。
さらに天祥寺原から滝ノ湯川沿いを歩く登山道のかなりの部分が、地図上はあっても目の前から消えてただの奥深い森林、それもかなり急斜面の道なき道になっているではないか。最初、60cmくらいの高さの笹が密に生えている平地を3人でかきわけて進んでいく。暗闇の中を大人1人と小学生の子供2人の3人が歩いて進んでいくのは、結構勇気がいる。
平地であるうちにはいいのだが、急斜面の森を斜めに道なき道をGPSナビソフトを便りに、かつ小さい子供と一緒に歩くのはとてつもなく時間がかかる。しかし、携帯電話は「圏外」表示のままなので、誰にも連絡をつけようがない。
とりあえず電話が入るところまで暗闇を進むことに決めた。地図を見ると、先へあと1kmくらい進むと電波が入りそうな気がしたので、夜8時くらいまで歩いて、結果的にそこでビバーク(緊急的な野営)することに決めた。

ビバークと言ったって、テントとかツエルトとか寝袋とかいったものは持っていない。持っているのは、ダウンジャケットと雨具だけだ。しかも高度は2000メートル以上ある。しかし、幸いなことにその割には結構暖かった。
幸い、携帯電話が一時的に圏外表示から3Gになってつながり、家にいる妻にビバークすることを連絡。我々は防寒具を着こんで、カロリーメイトを食べて空腹をしのぎ、翌朝空が明るくなってから行動することに決めた。そして3人でそこで適当な場所を見つけて、横になって眠ることにした。しかし、斜面だし、周りは木がいっぱい生えているし、我々3人が全身を伸ばして眠れるような場所はない。私と長女(小6)は全く眠れない。次女(小4)は、よほど疲れていたのかすぐに眠り始めた。

5. 雨が降ってくる。
悪いことは重なるもので、天気予報では晴れ時々曇りだったが、夜12時過ぎに雨がポツポツ降り出してきた。これでは雨具を着ているとはいえ、不快である以上に低体温症になって、最悪3人とも死にかねない。周りの土もドロドロになってくるし、全く眠るどころではない。それでも次女は眠っていたが。(笑)

6. 警察は明るくならないと助けにきてくれない。
そこで携帯電話が圏外から3Gでつながった瞬間をねらって、110番したら、長野県警が出て話したら、登山口がある行政区である茅野市警察署へ電話が転送され、また事情を説明した。結論として分かったのは、こういう状態の時には、警察も救助隊を派遣するのは明るくなってから、つまり朝5時以降でないと動かない、ということだ。二次被害を避ける目的なんだろうと思う。それくらい夜の登山道は危険だということなんだろう。
それだったら、我々3人が朝になってもう一度動き始めるというのがベストの選択肢、ということになる。

夜8時過ぎから翌朝5時まで私の場合眠らずに過ごすことになり、時間をもてあまして困った。しかも雨が降ってきて、雨宿りする場所もなく寒い。さすがに朝3-4時くらいは超寒く、がたがた震えながらすごす。もしこれに風が吹いていたら、完全に低体温症で3人の命は危なかったかもしれない、と思うと、最も幸運だったのは無風状態であったことだ、と言える。

そして朝5時前に我々は行動を再開し、1時間ほど道なき道をかきわけて進んでいくと、しっかりとした登山道を見つけ、それからさらに1時間歩いて車に帰ることができた。

今回の教訓としては、以下のことが言えると思う。
1. 登山計画は慎重に余裕をもった計画を立てるべし。
子連れで登山をする時点で時間を3割増しくらいになっても無事下山できるスケジュールをたてないと駄目。
2. 登山しない、という決断の難しさ。
八王子の渋滞による遅れで、その時点で登山を諦めるべきであった。しかし、登山しないとなると子供達もがっかりするし、親としてはその決断は非常に困難なものであった。しかし、プロとアマチュアの登山家の違いはそういうところにも現れるのだろうと思う。
3. 食料・水の大切さ
今回の場合、食料も水も必要十分に持って行ったため、荷物は重くなったものの、気分的にも体力的にも安心感があって、かつわりと普通の思考能力を維持することができた原因だと思う。空腹であの寒さだと低体温症に確実になっていたのではないだろうかと思われる。水も水筒ではなく、ハイドレーションシステムを使用していたので、2リットル/人の水も運ぶのが苦ではなかった。
4. ツエルト(簡易テント)は必須アイテム
登山関係の書籍にはツエルトは装備として必須アイテムには入れられていないことが多いが、2500メートル級以上の山を目指す場合は必須アイテムだと確信した。これによって数百グラムは重さも増すのだが、命には代えられない。
5. 警察は朝にならないと動かない。
朝にならないと動かないということは夜を何とか生き延びないといけない、ということでそれを覚悟した装備、体力を温存していないといけない。
6. 登山道は消えてなくなっている場合もある。
これは全く予想外だった。GPSアプリがなかったら、どうなっていただろうか、と恐ろしくなる。
7. 携帯電話のバッテリーは十分に予備を持って行くこと。
今回の場合、予備バッテリー付のiPhoneケースだったので、余裕をもった対応ができた。これが電池切れになったら、恐ろしい事態に。

子供達の感想は「死ぬかと思ったけど、終わってみると楽しかった」、「こんな経験をさせてくれる親なんかいないと思うよ」というポジティブな感想で良かった。また山登りをしたいらしいが、こんなにadventurous tripでなくていいよ、とも言っていた。そりゃそうだろうよ。私もこんなハラハラするようなことをやるつもりないよ。